宮野吉松家系図概要

Miyano Yoshimatsu

関係者の皆さま、
朝倉の歴史に詳しい皆さまへ

こんにちは。もしくは、はじめまして。
朝倉で約1400年の歴史があり、今も続いている「吉松家」の調査を行っている坂田と申します。

1年以上にわたる調査の期間を経て、ようやく吉松一族の全体像が見えてきており、現在は大詰めの段階に入っています。

まず、これまで調査にご協力いただいた方々へ感謝を申しあげます。ありがとうございました。

調査結果については、複数に分家した吉松家の中でも「宮野吉松家」に特化した上で情報を整理し、本サイトにて公開を予定しております。(現在はプレリリース中という扱いです)

つきましては、皆さまにお願いがございます。
現時点で本サイトに掲載されていない新しい情報や、記述の誤りなどのお気づきの点がございましたら、ぜひご連絡いただけますと幸いです。

いただいた情報は、吉松家の歴史をより正確に後世へ残すための大切な手がかりとなります。
どうぞよろしくお願いいたします。

坂田 拓也

あさくらのみや

朝倉宮の、その先へ。

1400年前、ここ朝倉が日本の都だったことは多くの人が知っている。
日本書紀にも記された、斉明天皇による朝倉遷都の舞台、朝倉宮(あさくらのみや)だ。

でも、都が去った『その後の1400年間』、 この町がどう生きてきたかは、謎が多かった。

しかし、古代、中世、近世、近代。 時代の激流の中でも、この土地に根を張り、 朝倉と共に生き続けてきた一族がいる。

吉松家。

彼らが残したこの町で生きた1400年の痕跡は、 単なる家の記録ではない。

吉松家の歴史は、私たちが知らなかった朝倉の歴史の「空白」を埋める。

ABOUT

本サイトは、福岡県朝倉市宮野地区に伝わる吉松家の系図を整理し、その稀有な歴史を後世に伝えることを目的としている。

吉松家は、西暦661年の斉明天皇による朝倉行幸を起源とし、以来約1400年にわたり朝倉の地に根付いてきた。一族の歴史は朝倉の変遷そのものであり、日本全体で見ても屈指の古い歴史を持つ土着の一族である。

吉松家は時代に応じた高度な生存戦略をとり、その役割を柔軟に変化させてきた。

本サイトの制作にあたっては、以下の史料を主要な参照資料とした。

• 吉松直江編纂『吉松系図(直江系図)』

• 東京大学史料編纂所所蔵『吉松系譜』

• 吉松道哉・吉松隆太郎・吉松静子による著作『吉松家系図解読』

これらの史料を遺した先人の意思を継承し、最新の情報と照らし合わせながら、現代風に再構成した。本系図が、朝倉の歴史や吉松家に関心を持つ方々の一助となれば幸いである。

作成者

坂田 拓也

調査機関

2024年10月〜2026年1月14日

主な参考文献

  • 吉松系図版3(直江系図)
    吉松直江という吉松家の人物が、書き残したとみられる吉松家の系図。宮野吉松家の吉松種政が最後に書き残した系図を参考に書いたと見られ、初代吉松家から、分家後の宮野吉松家と田中吉松家の両家を含めて幅広く書かれている。
    元本:編纂年代:1540年頃 / 著者:不明 (神祇官・卜部定澄の認証あり)
    版2:編纂年代:1668年頃 / 著者:吉松種政
    版3:編纂年代:1820年頃 / 著者:吉松直江

  • 吉松家系図解読
    博多吉松家と杷木吉松家の先人たちによる朝倉吉松家の調査をまとめた本。調査結果・調査の過程・推測箇所の根拠や裏付けなどが詳細に書かれており、限定200部印刷の非売品。

    一部の吉松一族と国立図書館(東京・大阪)、朝倉周辺では、あさくら図書館、杷木図書館、甘木歴史資料館に保管が確認されている。
    吉松道哉, 吉松隆太郎, 吉松静子 著
    あざみ書房

  • 吉松系譜

    東京大学史料編纂所に所蔵されている書物で、原本は怡土郡王丸村の児玉韞(こだまうん)氏が何らかの方法で採集し所持していたと見られ、内閣支局編集部の久米邦武氏が採訪し写本をしたと見られる。なお、この書物は宮野吉松家を中心に書いている。原本の著者は不明である。

  • その他は、「朝倉風土記」、「朝倉町史」、「聖蹟と朝倉」など、朝倉エリアに関する歴史が書かれた様々な本を参考にした。

朝倉吉松家研究論文

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「宮野吉松家」のみならず、
「朝倉吉松家」全体の歴史的変遷と地域における
役割を論文形式でまとめました。

吉松家に関するすべての歴史を網羅的に知りたい方はこちらをおすすめします。

坂田拓也(1994年11月11日生)。
宮野吉松家・吉松弥一郎の曾孫にあたり、家系上では吉松家47代に位置づけられる。
2000年(5歳)より、古代から近世まで宮野吉松本家が位置していたと推定される土地に建てた住居で育ち、多くの宮野吉松家の親族の方々と日常的に接しながら成長した。
住居の目前には、江戸期以来の宮野吉松家墓石群が所在し、幼少期からその墓地清掃などに関わってきた。
また、住居敷地内には、宮野吉松家39代・吉松但馬定恒が荒神を鎮めため際に建立したとされる石祠が現存する。

作者紹介

Author Profile

Takuya Sakata (born November 11, 1994) is a great-grandson of Yoshimatsu Yaichirō of the Miyano Yoshimatsu lineage.
In the broader Yoshimatsu genealogy he corresponds to the 47th generation, and within the Miyano branch he is counted as the 16th generation.
Since 2000 (age five), he has lived next to the Miyano Yoshimatsu main residence, growing up in daily contact with many relatives of the lineage.
In front of his home stands the historical Miyano Yoshimatsu family tomb cluster, dating back to the Edo period, which he has helped maintain since childhood.
Within the property also remains a stone shrine said to have been erected by Yoshimatsu Tajima to pacify the local aragami when he served as priest of Miyano Shrine.

本家系図は、「歴史的に完全に証明された血統書」というよりも、史料にもとづく部分と、一族に伝わる物語をあわせて整理した「家の歴史の見取り図」としてまとめたものです。
とくに古代から中世前半にかけては、「このように伝承されてきた系譜がある」というレベルで受けとめていただき、
将来、新たな史料や研究によって内容が更新されうることをご理解いただければ幸いです。

読まれる方へのお願い

Notes for Readers

This genealogy should not be regarded as a “historically verified pedigree” in the strict sense, but rather as a conceptual outline of the family’s history—one that integrates both information grounded in historical sources and oral traditions handed down within the lineage.
In particular, for the sections covering antiquity through the early medieval period, the contents should be understood as representing genealogical traditions that have been transmitted over generations.
Future discoveries of new historical materials or advances in research may lead to revisions or refinements of these portions, and such possibilities should be kept in mind when consulting this genealogy.

プライバシー配慮のお願い

本系図では、吉松家ならびに関係者のプライバシーを尊重するため、2000年(平成12年)時点で存命の方々に関する個人情報は記載していません。(一部を除く)
これは、家系図が公共性を持つ一方で、現代に生きる個人の権利を守るための重要な配慮です。

吉松家は、約1400年にわたり朝倉の地で生活を続けてきた一族であり、現在も「吉松」の姓を名乗る多くの方々が地域で暮らしています。
しかし、本サイトの公開は、個々の家族や生活実態への取材や詮索を促すためのものではありません

つきましては、閲覧者の皆さまに以下の点をお願い申し上げます。

  • 記載のない人物について、個人を特定しようとする行為はお控えください。

  • 吉松家の現存家族や親族に対する 直接的な連絡、取材依頼、問い合わせ、詮索 を行わないようお願いいたします。

  • 本系図の内容をもとに、個人の私生活や家族構成に関する推測・公開・共有を行うことはご遠慮ください。

  • SNS やオンライン上で、個人が特定されうる情報を投稿・拡散することはお控えください。

本サイトは、あくまで「吉松家という一族の長い歴史を後世に残す」ことを目的としており、
現代の個人のプライバシーや生活には一切干渉しない立場を取っています。

閲覧者の皆さまのご理解とご協力をお願い申し上げます。

朝倉吉松家と宮野吉松家

本サイトにおける「朝倉吉松家」とは、恵蘇八幡宮の初代宮司家を務め、宮野地区に居住していたと考えられる吉松家を本家とし、1587年の豊臣秀吉の九州平定以後に分かれた田中吉松家などの諸分家を総称する呼び方として用いる。

宮野吉松家

恵蘇八幡宮の最後の主座祠官であった吉松種良(32代)は、弟の種栄に宮野神社の祠官を与え、息子の種仲には宮野村・烏集院村・田中村の保正を与え、種良は種仲と孫の種為とともに田中村に移住したと見られる。

この時に、宮野の地に残った一族を宮野吉松家とする。

なお、一般的には当主が在する家が本家となるが、吉松家の場合は、当主・吉松種良が家を出たと評価し、本家は宮野吉松家とする。

宮野吉松の一家一族は、その後もしっかりと宮野の地に根を下ろし、農業を営んで今日に至っており、現在も宮野には数軒の吉松家が現存する。

また、本サイトの制作を行った坂田は、宮野吉松家44代・吉松弥一郎の曾孫にあたる。

田中吉松家

恵蘇八幡宮の宮司家を終了した後に、吉松家は宮野村の宮司家と行政職を世襲する家に分かれ、行政を世襲する家の一部は朝倉の田中(当時の田中村)という地区に移住したと見られる。

32代種良が孫の種為を連れて田中へ引っ越した後、40代の種方まで、職名は変化しつつも一貫して田中村の指導者(農長・保正・庄屋)の立場を貫き、その後田中村を離れて杷木町大字池田に移住。以後は杷木吉松家と呼ぶ。

また、39代の時に、博多に移住した一族もおり、彼らを博多吉松家と呼ぶ。

杷木吉松家

寛政の末(1800年)頃、40代種方から家督を継いだ41代の勘助の時代に杷木町大字池田に移住した。

杷木に移った吉松本家は、その後、42代景山、43代知太郎、44代重實と三代にわたり医業を営みま、現在もごく少人数の子孫が杷木の池田に残っているようだ。

「吉松家系図解読」の著者・吉松道哉さんもこの杷木吉松一族の45代にあたる。

博多吉松家

39代目の吉松種煕(たねひろ)は、田中村で生まれましたが、晩年に一家を挙げて博多(福岡)に移住したと考えられている。

種煕が亡くなったのが天保3年(1832年)であり、その頃、あるいはもう少し早い1800年頃に博多に出た可能性があり、種煕やその娘の直江の墓は、博多の萬行寺にありましたが、現在は真光寺(福岡市中央区桜坂)に一本化した。

杷木吉松家同様、医業を中心に営んでいたようで、42代知我志の代に大阪へ移住したようだ。

「吉松家系図解読」の著書・吉松隆太郎さんはこの博多吉松家の44代にあたる。

宮野吉松家系図

この系図は、朝倉吉松家の本家から、安土桃山時代に分岐した宮野吉松家へと至る流れを整理し、系統として辿れる形で作成しています。

  • 吉松本家

    初代

    661年頃

    よしまつ さだいえ

    吉松 定家

    吉松家の初代当主。
    斉明天皇より恵蘇八幡宮の宮司を命じられたと言い伝えられる。
    出自ははっきりしていないが、朝廷に中臣氏に仕えていた卜部氏のひとりではないかと推定している。

    661

    斉明天皇による朝倉遷都

    斉明天皇が筑紫に行幸された候(とき)、謂(いわれ)あって新羅国を制罰すべきとの勅願が存したため、これに因(よ)りて定家を司官(しかん)となさしめました。

    定家は白雉九年に祭祀を始め、その職に在(あ)りて、恵蘇八幡宮を兼ねて宮野神社等の祭祀を司りましたが、その時、定家は勅を蒙(こうむ)りて、即(すなわ)ち胆情(真心)を神明に抽(ぬきん)じました。

    然而(しかして)、種々の奇瑞(きずい)が有りました。氏祖の傳(つたえ)に曰(いわ)く、帝(みかど)が「異国降伏の吉候を日々に待つ」と仰せられたところ、果たして神功(しんこう)が有りました。

    此(こ)の故(ゆえ)に当家において、永世家門の氏者(名字)也。朝倉総大宮司として、麻氏良布神社、春日、山王の三所大明神の祭儀にも共に預(あずか)るようになったのです。

    直江系図抜粋

  • 吉松本家

    2代

    692頃 (推定)

    よしまつ さだあき

    吉松 定明

    701

    大宝律令(律令国家としてのルール完成)







  • 吉松本家

    3代

    723頃 (推定)

    よしまつ さだひで

    吉松 定秀

    710頃

    平城京へ遷都(奈良時代の始まり)
    井出野遺跡(宮野・比良松地区)で、郡衙(郡役所)や倉庫跡とみられる遺構・木簡が多数出土。
    上座郡(かみつあさくらぐん)の政治・行政の中心が、まさに旧宮野村〜朝倉村エリアにあったと考えられる。












  • 吉松本家

    4代

    754頃 (推定)

    よしまつ さだとも 

    吉松 定友 

  • 吉松本家

    5代

    785頃 (推定)

    よしまつ さだざね 

    吉松 定實 

    794

    平安京へ遷都(平安時代の始まり)

  • 吉松本家

    6代

    816頃 (推定)

    よしまつ さだのり 

    吉松 定則

  • 吉松本家

    7代

    847頃 (推定)

    よしまつ さだよし 

    吉松 定義 

  • 吉松本家

    8代

    878頃 (推定)

    よしまつ さだみつ 

    吉松 定満 

  • 吉松本家

    9代

    909頃 (推定)

    よしまつ さだのぶ 

    吉松 定信 

  • 吉松本家

    10代

    930頃 (推定)

    よしまつ さだまさ 

    吉松 定政 

    定政は931年に大蔵春実より次のような命を受けたと伝えられる。
    斉明・天智二天皇を恵蘇八幡宮に合祭すること
    その功により、免上地七百余町の寄付を受けること
    あわせて宮野神社に老松大明神(吉祥女)を合せ祀り、「老松三社大明神」と改称すること

    935-
    941頃

    平将門の乱・藤原純友の乱(地方反乱の象徴)

  • 吉松本家

    11代

    961頃 (推定)

    よしまつ さだとし 

    吉松 定利 

  • 吉松本家

    12代

    992頃 (推定)

    よしまつ さだはる 

    吉松 定治

    1000
    前後

    『枕草子』『源氏物語』(貴族文化の絶頂)

  • 吉松本家

    13代

    1023頃 (推定)

    よしまつ さだつぐ 

    吉松 定次 

  • 吉松本家

    14代

    1054頃 (推定)

    よしまつ さだつね 

    吉松 定経 

  • 吉松本家

    15代

    1085頃 (推定)

    よしまつ さだしろ 

    吉松 定代 

    1086

    白河上皇の院政開始(天皇と上皇の二重権力)

  • 吉松本家

    16代

    1116頃 (推定)

    よしまつ さだのぶ 

    吉松 定宜 

  • 吉松本家

    17代

    1147頃 (推定)

    よしまつ さだふさ 

    吉松 定房 

  • 吉松本家

    18代

    1178頃 (推定)

    よしまつ さだかた 

    吉松 定方 

    1185-1192

    源頼朝が征夷大将軍に(鎌倉幕府成立)








  • 吉松本家

    19代

    1209頃 (推定)

    よしまつ さだみつ 

    吉松 定光 

    1203頃

    原田一族の原田種雄が、鎌倉幕府・源頼家から筑前国夜須郡秋月荘を与えられ、
    「秋月氏」を名乗り古処山城を築いたとされる。

  • 吉松本家

    20代

    1240頃 (推定)

    よしまつ さだかつ 

    吉松 定雄 

  • 吉松本家

    21代

    1271頃 (推定)

    よしまつ さだのぶ 

    吉松 定延 

  • 吉松本家

    22代

    1302頃 (推定)

    よしまつ さだつら 

    吉松 定連 

    1274,
    1281

    文永・弘安の役(元寇)。
    戦いの主戦場は博多湾沿岸だが、秋月氏は弘安の役で出陣した記録があり、
    朝倉の人々も「後方支援」の役割を担っていたと考えられる。







  • 吉松本家

    23代

    1333頃 (推定)

    よしまつ さだみち 

    吉松 定道 

  • 吉松本家

    24代

    1364頃 (推定)

    よしまつ さだゆき 

    吉松 定以 

  • 吉松本家

    25代

    1395頃 (推定)

    よしまつ さだお 

    吉松 定生 

    1200-
    1500頃

    秋月荘など中世荘園が形成され、朝倉は古処山城を本拠にする秋月氏の勢力圏に組み込まれていく。

  • 吉松本家

    26代

    1420頃 (推定)

    よしまつ さだもと 

    吉松 定元 

    男子なし
    娘が秋月家の正室となる。

    吉松家に関連する
    秋月家系図へ

    養子

    定元の娘が、秋月家代12代当主の秋月種照の正室となり2人の男の子を生み、その次男を吉松家の養子として迎え入れた。

  • 吉松本家

    27代

    1450頃 (推定)

    よしまつ たねすけ

    吉松 種助

    官職名:式部
    旧姓:吉松 定助 (さだすけ)

    定元の娘と秋月種照の次男で吉松家の養子へ。
    もとは吉松定助という名であったが、後に秋月家より吉松家の貢献などを認められ、秋月家(原田家)の血筋を意味する「種」という字を与えられ、吉松種助となった。

    これまでの約780年間、吉松家では名前に「定」の字を用いる慣習が続いていたが、この時代から「種」の字が使用されるようになる。
    当時は、家の権威や個人の誇りが血統と強く結びついていたと考えられる。
    「種」という字は原田氏の系統に属することを意味しており、そこには
    劉邦 → 漢王族 → 大蔵氏 → 原田氏 → 秋月氏
    と連なる血筋に、吉松家が組み込まれたという意識が反映されている。
    そのため、「種」の使用は単なる改名ではなく、吉松家が新たに獲得した血統上の位置づけを象徴するものであったと考えられる。

  • 吉松本家

    28代

    1470頃 (推定)

    よしまつ たねうじ 

    吉松 種氏 

    官職名:式部

    1467

    応仁の乱(戦国時代の幕開け)

  • 吉松本家

    29代

    1500頃 (推定)

    よしまつ たねよし 

    吉松 種義 

    官職名:式部

  • 吉松本家

    30代

    1530頃 (推定)

    よしまつ たねひで 

    吉松 種秀 

    官職名:式部

  • 吉松本家

    31代

    1560頃 (推定) 

    よしまつ たねいえ 

    吉松 種家 

    官職名:民部

    1587年、秋月氏と共に宮崎へ移ったか。

    1557頃

    大友軍により 古処山城落城、秋月氏いったん没落。
    その後、秋月種実が古処山城を奪還。







  • 吉松本家

    32代

    1585頃 (推定) 

    よしまつ たねよし 

    吉松 種良

    官職名:民部

    豊臣秀吉の九州侵攻・平定によって、吉松家は恵蘇八幡宮の宮司職を追われ、この地における宮司家としての役目を終えた。
    その後、弟・種栄を宮野神社の祠官を務めさせる一方、長男を三村の保正(のちの庄屋、現在でいえば村長にあたる役職)に就けることで、一族の宗教的・地域的な役割をなんとか維持した。

    1587

    豊臣秀吉の九州平定。
    敗れた秋月氏は宮崎(串間・高鍋)へ移封される。

    天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐によって、吉松家にとって最大の後ろ盾であった秋月家が日向国へ移封された。これに伴い、吉松家は伝来の免上地(神領)をすべて没収され、恵蘇八幡宮における主座祠官の地位も失うという未曾有の危機に直面した。
    後に、32代当主・吉松種良はこの激動の時代を一族が生き抜くため、家の機能を「神職」と「行政職」に分ける機能分化戦略を断行した。種良は、実弟の種栄を宮野神社の祠官へ配置して祭祀を継承させる一方で、実長男の種仲には田中・宮野・烏集院の三村を統括する保正(のちの庄屋)の職を委ねた。あわせて種良は、祭儀の伝統が途絶えることを防ぐため、儀礼知識や作法を詳細な記録として後世に残すことに尽力した。
    しかし、行政機能を担った種仲が若くして急逝したため、種良は次男の種嗣に宮野・烏集院の二村を任せたと推測される。田中村の保正職については、種仲の遺児である種為が幼少であったため、祖父である種良が一時的に再任して孫を養育したと考えられる。

  • 宮野吉松家

    33代

    1570頃 (推定)

    よしまつ たねひで

    吉松 種栄

    官職名:式部

    宮野吉松家の祖。
    兄・種良の猶子(法務手続き上の嫡子)となり、種良の命を受け宮野神社の神官へ。

  • 宮野吉松家

    34代

    1585頃 (推定)

    よしまつ たねさだ

    吉松 種定

    官職名:式部仁左エ門

    免方役(福岡藩の行政官)福岡住み

    1600

    関ヶ原の戦い(徳川家康が実権掌握)
    1603年には江戸幕府成立(江戸時代スタート)

  • 宮野吉松家

    34代(中継)

    1610頃 (推定)

    よしまつ たねつね

    吉松 種経

    官職名:左次兵衛

    養親?

    養子?

    種経の男子がいたかは不明だが、跡継ぎは、兄・種定の息子・種政へ。

  • 宮野吉松家

    35代

    1635頃 (推定)

    よしまつ たねまさ

    吉松 種政

    官職名:修理

    直江系図に以下の記載あり
    「古くから伝わってきた系図は虫に食われ朽ちそうになっているので、寛文8年(1668年)にこれを写し新しくした」また、吉田靭負定俊書の恵蘇八幡宮縁起書(吉田縁起書)の巻末に吉松種政と吉松種次の署名あり。現在は恵蘇八幡宮の社宝として残っている。

    1663頃

    筑後川から水を引く 堀川用水 の開削。
    旧朝倉町〜甘木一帯の水田化が一気に進む。

    江戸幕府は1798〜1812年にかけて『寛政重修諸家譜』を編纂し、この時期には系図を脚色・捏造する風潮も見られたとされる。
    一方で、種政が書き写した吉田縁起書の系図は1668年成立であり、寛政期とは一世紀以上の隔たりがあるため、当時の流行に沿った改作・捏造とは考えにくい。

  • 宮野吉松家

    36代

    1660頃 (推定)

    よしまつ たねつぐ

    吉松 種次

    官職名:但馬守

    父・種政とともに恵蘇八幡宮の社宝「吉田縁起書」の巻末に名前が記載されている。

  • 宮野吉松家

    37代

    1685頃 (推定)

    よしまつ たねお

    吉松 種生

    官職名:壱岐守

  • 宮野吉松家

    38代

    1710頃 (推定)

    よしまつ たねあきら

    吉松 種晟

    官職名:主殿

    1720頃

    朝倉にて取水口の土砂問題解決のため、
    岩盤をくり抜いた 切貫水門トンネルが造られる。

  • 宮野吉松家

    39代

    1735頃 (推定)

    よしまつ たねのり

    吉松 種徳

    官職名:和泉守→但馬守

    荒神鎮座の祭儀を行った人物。
    --
    遺構では「吉松和泉」と「吉松但馬」との二表記が見える。
    時系列から推測すると、晩年に「吉松但馬」を名乗ったと考えられる。
    --
    また、墓石には「吉松但馬定恒」と記されていることから、秋月氏から「種」の字をもらう前の吉松家が代々使用してきた「定」に思いを馳せて、この字を使用したなどのことが考えられる。

    1759頃

    堀川用水の大規模拡張工事。
    灌漑面積が200町超の大規模用水路になる。

  • 宮野吉松家

    40代

    1760頃 (推定) 

    よしまつ たねかず

    吉松 種一 

    官職名:但馬守

    弟に種昔がいる。

    1789頃

    川面より高い田畑へ水を上げるため、朝倉の揚水車(三連水車など) が整備されはじめる。

    種一は早世しており、その弟である種昔の墓石に「但馬」の官職名が確認できることから、宮野神社の祠官(宮司家としての当主)は種昔が継承したものと見られる。種一および種昔の両名ともに跡継ぎはなく、ここにおいて直系としての宮野吉松家の流れはいったん断絶したと考えられるが、以降の具体的な家流変更の経緯は詳らかではない。

  • 宮野吉松家

    40代(中継)

    1820頃 (推定)

    よしまつ たねむかし

    吉松種昔

    官職名:但馬正

    吉松種一の弟と見られる。種一に跡継ぎがいなかったため後を継いだと推定される。

    直系途絶える

    家流変更

    神社の遺構や文献記録より、種昔の後継神官として吉松駿河・吉松但馬の親子が継いでいることが判明している。しかし、当該地域においてこの親子と確証できる墓所は発見されておらず、何らかの理由により他地域へ移住した可能性も考えられる。
    現在の吉松家は、種徳の弟にあたる吉松林作の末裔一族が本家的立場にある。

  • 宮野吉松家

    41代

    1809頃 (推定)

    よしまつ わさく

    吉松 和作

    現・吉松本家筋3代

    明治期に作られた戸籍データベースにもこの人物の名前が確認でき、「和助父」という表記で登場している。

  • 宮野吉松家

    42代

    1836頃 (推定)  

    よしまつ わすけ

    吉松 和助

    現・吉松本家筋4代

    戸籍の記録から、すでにこの時期には、現在の吉松本家が居住する場所に住んでいたことがうかがえる。

    1876頃

    秋月の乱。旧秋月藩士たちの士族反乱。
    朝倉一帯の士族層の没落と、近代的行政への転換が進む。

  • 宮野吉松家

    43代

    1883年頃 

    よしまつ くらきち

    吉松 倉吉 

    現・吉松本家筋5代

    宮野神社の神事に多くの尽力をしたという言い伝えが残っている。

  • 宮野吉松家

    44代

    1890年頃 

    よしまつ やいちろう

    吉松 弥一郎 

    現・吉松本家筋6代

    本系図作者・坂田拓也の曽祖父にあたる。

  • 宮野吉松家

    45代

    1940年頃

    よしまつ ひでみつ

    吉松 秀光

    現・吉松本家筋7代

    弥一郎の長男。本系図作者・坂田拓也の祖父の兄にあたる。
    太平洋戦争にてビルマ方面へ出兵し、無念にも帰らぬ人となった。

    秀光は結婚していたものの子供はおらず、ビルマで戦死をしてしまったため、弟が家督を継いだ。

プライバシー保護のため、これ以降の系図は割愛しています。
現在は人数が減少傾向にあるものの、穏やかな時間が流れる宮野地域で、今でも宮野吉松家の子孫たちが先祖のお墓を大切に管理しながら生活を続けています。

秋月氏と吉松家の合流

西暦661年に恵蘇八幡宮の宮司家として世襲を開始した吉松家は、中世武家社会の到来とともに、地域有力者である秋月氏と深い関わりを持つようになる。その転換点となったのは、婚姻と養子縁組を通じた血統の合流である。

女系を通じた血統の合流

吉松家は長らく男系による世襲を維持してきたが、室町時代中期の第26代当主・吉松定元の代に大きな転換期を迎えた。定元の娘が、秋月家第12代当主・秋月種照の正室として迎えられたのである。さらに1463年(寛正4年)、種照の次男(当初の名は定助)が吉松家の養子となり、第27代当主・吉松種助として家督を継承した。

この合流を機に、吉松家は始祖以来約800年にわたり守り続けてきた通字の「定」を捨て、秋月一門の証である「種」の字を名乗ることとなった。これは、吉松家が単なる在地の神官から、戦国大名・秋月氏の「一門衆(準一門)」へと、その社会的性格を変化させたことを意味している。

秋月氏の血統が持つ象徴性

当時の社会において、秋月氏の血統は極めて高い象徴性を有していた。秋月氏は、漢帝国の建国者・劉邦を祖とする「大蔵氏(原田氏・秋月氏)」の流れを自らの系譜として掲げていた。

劉邦の末裔が実際に日本へ到達したことを裏付ける直接的な史料はなく、伝承的な要素が強いものの、当人たちが劉邦の後裔を名乗り、周囲もその系譜を名門の権威として認めていた事実は、一族の社会的評価に絶大な影響を与えていた。

吉松家にとっての意味

名門・大蔵氏の血筋を引く秋月氏の血統が加わったことは、吉松家の家格形成において決定的な意味を持った。秋月氏からは「種」の字と共に、儀礼や祭祀を司る職掌を示す「式部(しきぶ)」という百官名を名乗ることも許されている。

これにより吉松家は、秋月家中において「祭祀・儀礼担当の重臣」としての確固たる地位を確立した。古代から続く「中臣・卜部」の祭祀的アイデンティティの上に、中世の名門武家である「大蔵・秋月」の権威を上書きしたことは、その後の戦国動乱期を生き抜くための強力な社会的後ろ盾となったのである。

  • 前漢皇帝

    初代

    紀元前256年頃

    劉邦

    りゅうほう

    高祖 (こうそ)

    前漢の開祖・漢高祖。沛県出身の庶民から皇帝へ。
    秦を滅ぼし、項羽との楚漢戦争に勝利して天下統一。 

    劉邦の子孫が前漢・後漢の皇族として続く時期。

  • 後漢皇帝

    12代

    2世紀後半 

    劉宏

    りゅうこう

    霊帝 (れいてい)

    黄巾の乱期の皇帝。阿知使主・阿多倍王らの祖とされる(後世の伝承)。

    後漢第14代皇帝 劉協(献帝)
    延王(えんおう)
    石秋王(せきしゅうおう)
    など

  • 東漢 (倭漢直)

    初代 

    4〜5世紀ごろ 

    阿知使主 

    あちのおみ (あちおう)

    日本書紀・後世系図では後漢霊帝の曾孫・帰化人首長とされ、東漢氏・倭漢直の祖。
    応神天皇期に一族と渡来し、技術者集団を率いて仕えたとされる。

    都加使主(つかのおみ)
    阿多倍王(あたべおう)
    貴重王(きちょうおう)
    など

  • 大蔵家

    初代

    660頃 (推定) 

    大蔵 広隅 

    おおくら の ひろすみ 

    旧 東漢 広隅

    壬申の乱で大海人皇子側についた功臣。東漢氏であったが、壬申の乱での功績から大蔵姓を賜り、大蔵氏の祖とされる。

    7代の間あり。
    大蔵国足→大蔵泉→大蔵麻呂→大蔵子足→大蔵真勝→大蔵広勝→大蔵常直→

  • 原田家

    初代

    940頃 (推定)

    原田 春種

    はらだはるたね

    旧・大蔵 春実 (はるざね)

    征西大将軍として天慶の乱(藤原純友の乱)鎮圧に功を立て、筑紫(原田)に土着した人物。
    史実とは異なるが、史実より古い文献である吉松家の文書では、この人物が斉明天皇と天智天皇を恵蘇八幡宮に合祭したとされる。
    また、恵蘇八幡宮の神領として、吉松定元に700余町の免上地を寄進したとされる。

    劉邦の子孫が前漢・後漢の皇族として続く時期。

  • 原田家

    2代

    980頃 (推定)

    原田 種光

    はらだ たねみつ

  • 原田家

    3代

    1020頃 (推定) 

    原田 種材 

    はらだ たねき

  • 原田家

    4代

    1020頃 (推定) 

    原田 種村

    はらだ たねむら

    刀伊賊を撃つ

  • 原田家

    4代

    1060頃 (推定) 

    原田 種弘

    はらだ たねひろ

  • 原田家

    5代

    1100頃 (推定) 

    原田 種資

    はらだ たねすけ

    1000-
    1150頃

    このあたりの原田家の系譜については、参照する文献や公開情報によって主張が分かれており、
    現時点(2025年)でその正確性を断定することは難しい。

  • 原田家

    6代

    1135頃 (推定) 

    原田 種生

    はらだ たねお

    平家の家人として九州で勢力を張った原田氏の代表的人物。保元の乱・平治の乱・源平合戦で平家方として活動し、のち建久元年(1190)に赦免され筑前国怡土庄の地頭に任じられた。

    祖父

    この間に原田種生の息子であり、秋月種雄の父にあたる「原田種俊」という人物がいる。

  • 秋月家

    初代

    1203頃 (推定)

    秋月種雄

    あきづき たねかつ

    原田 種雄

    保元・平治〜源平合戦期に原田氏として活動し、建仁3年(1203)頃に秋月に入り、「秋月家譜」では源頼朝から秋月荘を与えられたと伝える。秋月という地名を姓にした最初の武将。

    親・兄

    子・弟

    秋月種雄と原田氏との関係は、原田種直の子もしくは弟の2説が存在しており、現時点ではどちらかはっきしりしていないようだ。

  • 秋月家

    2代

    1240頃 (推定) 

    秋月種幸

    あきづき たねゆき 

    文永の役(元寇)が始まるが、参戦したかは不明。

    元寇を受け、北部九州の武士たちの多くは、鎌倉幕府の命を受け、元軍との対戦に参加する。

  • 秋月家

    3代

    1281頃 (推定) 

    秋月種家

    あきづき たねいえ 

    弘安の役(元寇)に出陣、武勲をたてる。

    元寇を撃退するも、幕府からの恩賞があまりなかったため、幕府への忠誠心が下がり始めていたと見られる。

  • 秋月家

    4代

    1300頃 (推定) 

    秋月種頼

    あきづき たねより 

    乾元元年(1302)に、自らの菩提寺として筑前秋月に安養寺を創建したと伝わる人物。
    元軍の再襲来に備えて、博多湾岸の石塁を構築。

    元寇を撃退するも、幕府からの恩賞があまりなかったため、幕府への忠誠心が下がり始めていたと見られる。

  • 秋月家

    5代

    1320頃 (推定)

    秋月種資

    あきづき たねすけ 

  • 秋月家

    6代

    1340頃 (推定) 

    秋月種貞

    あきづき たねさだ 

    南朝勢力に加勢しており、足利尊氏との戦(多々良浜の戦)に敗れ、
    大宰府まで落ちのびるが、足利直義などに取 り囲まれ一族郎党20余人枕を並べて討ち死。

  • 秋月家

    7代

    1359頃 (推定) 

    秋月種高

    あきづき たねたか 

    足利方の小弐頼尚と共に、宮方である菊池武光軍と筑後川を挟んで対陣する(筑後川の戦い)。

  • 秋月家

    8代

    1380頃 (推定) 

    秋月種顕

    あきづき たねあき 

  • 秋月家

    9代

    1390頃 (推定) 

    秋月種道

    あきづき たねみち 

  • 秋月家

    10代

    1400頃 (推定) 

    秋月種忠

    あきづき たねただ 

  • 秋月家

    11代

    1420頃 (推定) 

    秋月種氏

    あきづき たねうじ 

    幕府より所領安堵さる

  • 秋月家

    12代

    1440頃 (推定) 

    秋月種照

    あきづき たねてる 

    吉松定元の娘を正室として迎え、次男を吉松家の養子にした。
    応仁の乱では、中国地方の大友と組み、西軍の「山名宗全」に従い戦ったとみられる。

    秋月氏と吉松家の合流は、秋月種照の正室に吉松定元の娘を迎え、その次男を吉松家の養子としたことで始まる。

  • 秋月家

    13代

    1468頃 (推定) 

    秋月 種朝

    あきづき たねとも 

    吉松種助の実兄と考えられる。
    文明18年(1486)に筑前秋月に大龍寺を建立したとされる。
    当主として宗教・文化面の整備を進めた。
    大友義継・菊地武重の軍を古処山下に誘い寄せ、これを撃退する。

    この時期、中国・九州が騒乱、少弐・筑紫・大友三家が頻繁に秋月城を襲い攻めた。種朝は城を出て一戦を遂げ、三家の大軍を突き破り、二千余人を討ちとって、吉松種助の実の兄に当たる秋月種朝は大勝利をおさめている。

  • 秋月家

    14代

    1498頃 (推定) 

    秋月 種時

    あきづき たねとき 

    戦国時代前期の当主。秋月氏の勢力が筑前で一定の地位を保っていた時期の領主。生年は不詳だが、延徳2年(1490)頃の当主とされ、享禄4年(1531)頃に没したと伝わる。

    種時は、当時の豊後・肥後・筑後の守護職であった大友義鑑(よしあき)からの自立を図り、幕府の管領代であり筑前・豊前守護職でもあった大内義興(よしおき)へと接近した。
    しかしこの動きは大友方への明確な背反とみなされ、義鑑の軍勢に攻められて敗北してしまう。
    その後、種時は大内義興の仲介を受ける形で大友氏に降伏し、争いは一応の決着をみたとされる。
    なお、家督相続以前の永正6年(1509年)には、美奈宜神社の社殿を再建したという記録があり、政治的に不安定な時期でありながら、地域の祭祀や社の整備に力を注いでいたことがうかがえる。

  • 秋月家

    15代

    1525頃 (推定) 

    秋月 種方

    あきづき たねかた 

    秋月 文種 (ふみたね)

    しばしば「文種」とも書かれる。大友氏など周辺の戦国大名と争い、最終的には天文26年(1557)古処山城で討死(あるいは自刃)したとされる。

    文種(ふみたね)は、当初は強大な勢力をもつ大内義隆に従い、大友氏との和睦に貢献したことで、1541年には室町幕府の幕臣にも取り立てられている。また、嫡男の晴種は将軍・足利義晴から偏諱を受けて名乗りを与えられた。
    1543年には、砥上神社(中津屋神社)の造営に関わり、筑紫氏らとともに神領を寄進するなど、地域の祭祀にも協力していた。
    しかし1551年の「大寧寺の変」で大内義隆が滅ぶと文種は大友義鎮(宗麟)に従うが、のちに毛利元就の調略を受けて大友氏に反旗を翻す。
    これに怒った大友氏は大軍を送り、1557年(弘治3年)、文種と嫡男の晴種は古処山城で敗北し、最終的に自刃した。(なので、次男・種実が17代藩主へ)
    この結果、秋月氏はいったん滅亡し、領地のほとんどを失ったが、一部は家臣の深江氏らによって守られたと伝わる。

  • 秋月家

    16代

    1545頃 (推定) 

    秋月 種実

    あきづき たねざね 

    秋月家の最盛期を作った人物。
    島津氏と結んで大友氏と対抗した。秀吉の九州侵攻により、秋月家はこの代にて宮崎(高鍋)へ移封される

  • 秋月家 17代

    高鍋藩 初代藩主 

    1570頃 (推定) 

    秋月 種長

    あきづき たねなが 

    豊臣政権末期〜徳川初期を生きた当主。文禄・慶長の役に出陣し、その後の関ヶ原合戦では当初西軍方として行動したが、西軍敗北後に東軍へ帰順し、所領を安堵されて高鍋藩初代藩主となった。

    1871年に高鍋が高鍋県となるまで13代にわたり秋月家が藩主を務めた。

秋月氏は現在(2025年)も宮崎県高鍋にて続いている

このように、劉邦 → 大蔵 → 原田 → 秋月という血統には、多くの功績を残した人物が連なっており、当時の人々にとって“秋月の血が流れている”ということ自体が大きな権威を帯びていたことは容易に想像できる。

その血統を象徴する「種」の字を名乗ることになった吉松一族は、さぞ誇らしい思いを抱いたに違いない。

秋月家の養子として名を残した人物

余談ではあるが、「秋月家の養子」といえば全国的に知られる人物が一人いる。
「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」という名言を残し、財政破綻寸前だった米沢藩を立て直した上杉鷹山である。

鷹山は10歳のとき、九州の秋月家から米沢の上杉家へ養子として迎えられ、数々の困難を乗り越えながら藩政改革を成功させた人物として知られている。

1822年に72歳で没してからすでに二世紀近くが経つが、その政治手腕や姿勢は現代にも通じる普遍性を備え、今なお「有能な名君」として高く評価され続けている。

主な参考文献

  • 秋月家から見た九州の歴史
    石井秀夫・伊藤 久 共編

  • その他は、「朝倉風土記」、「朝倉町史」、など、朝倉エリアに関する歴史が書かれた様々な本を参考にした。

吉松家にゆかりがある神社

恵蘇八幡宮

もとは、朝倉天降八幡宮と呼ばれていました。

斉明天皇が朝倉山に登頂した際に、天から白幡が降り、「八幡」という文字が現れたことに由来するそうです。

後に、周辺の地名(現在の恵蘇宿)から「恵蘇」を取り、恵蘇八幡宮と呼ばれるようになったとされています。(つまり、地名が先にあったということになります)

宮野神社

宮野神社は、福岡県朝倉市宮野地区に鎮座する古社で、長いあいだ宮野の氏神として地域の暮らしとともに歩んできた神社です。創建の詳細を直接示す史料は残されていませんが、中世〜近世にかけて宮野地区の中心的な祭祀を担った神社として知られています。

神社行事
「堂籠」の様子

現在も毎年11月末に行っており、
地域の子供達が集まり、賑わっている。

コラム

ここからは、調査の中で感じた面白い謎や視点について紹介する。

ただし、作者(坂田)の推測である部分が多いので、あくまでも吉松家のロマンとして楽しんでいただきたいとともに、後世の方々が、ここからなにか新しい発見をしてくれると嬉しい。

吉松家の公的な歴史

朝倉吉松家の歴史が、ここまで述べてきた系図の内容の通りであれば、本来なら朝倉地域の公的な歴史にも頻繁に登場していても不思議ではない。むしろ、古代から地域の中心に関わってきた一族として、その名が歴史書に残されていて当然とも言える。

ところが実際には、吉松家の名は公的な歴史にほとんど現れない。
唯一確認できる公的な記録といえば、豊臣秀吉の九州平定ののち、秋月氏とともに宮崎・串間へ移ったとされる「吉松氏」が、後に宮崎で政治・経済の中心人物として活躍したことくらいである。

宮崎に残る「吉松氏」の痕跡

串間の旧吉松家邸宅の公式サイトには、次のような記述がある。

旧吉松家住宅は、明治から昭和時代にかけての串間の政治・経済に大きく貢献した吉松氏によって大正年間に建築されました。
明治から昭和にかけて串間のみならず宮崎県の政治・経済の牽引車的役割を果たした吉松家
吉松氏は、豊臣秀吉の九州侵攻に敗れた秋月種長(あきづきたねなが)が、甘木(あまぎ…福岡県)から高鍋・串間へ配置替えとなった時に秋月氏に従って串間に入ったと伝えられ、江戸時代を通して武士格の家柄です。
幕末期に吉松卓蔵(よしまつたくぞう)が市木川北郷(いちきかわきたごう)の庄屋となることで串間の歴史の表舞台に登場し、卓蔵の長男の忠敬(ちゅうけい)、忠敬の長男の忠俊(ただとし)と、3代にわたって山林取得、木材商いなどにより財を成し、また、政界にも進出して、明治から昭和にかけて串間のみならず宮崎県の政治・経済の牽引車的役割を果たしています。
旧吉松家住宅は、全盛期にあたる大正年間に忠敬・忠俊親子により建築されました。

この宮崎の吉松氏が、朝倉の吉松氏の分家なのかは定かではないが、時代背景から推察すると、何らかの関係はあると考えられる。

なぜ朝倉では痕跡が薄くなったのか

このように宮崎では「吉松姓」の確かな足跡が確認できる一方、肝心の朝倉では歴史の表舞台からほとんど姿を消している。
これは単一の理由ではなく、複数の要因が絡まり合った結果と考えられるが、その中でも最も影響が大きいと考えられるのが、

「秀吉に敗れた地域である」という構造的理由

ではないかと考えている。

歴史は勝者が書く、というのはよく言われる話だ。
中国・秦の焚書は象徴的な例だが、世界のどの地域でも「勝者が不都合な歴史を消す」現象は繰り返されてきた。

朝倉吉松家の痕跡が薄くなっているのも、秋月氏が秀吉に敗北したことで、その庇護下にあった吉松家の歴史も同時に表舞台から消えていった、と考えるときわめて整合的である。

実際に、恵蘇八幡宮に関連する書物は、1587年以前のものの存在は一切確認ができなかった。

秋月博物館での示唆的な一言

今回の調査の途中、秋月博物館を訪れた際、学芸員の方から次のように言われた。

「実は、秋月氏の詳しいことが分かる文献は宮崎に多く、
ここ(秋月)ではほとんど資料が見つかっていないのです。」

かつて秋月の中心として朝倉の歴史に深く関わり、地域のリーダーであった秋月氏ですら、その詳細は朝倉にはほとんど残っていない。

であれば、秋月氏の庇護下にあった吉松家の歴史が朝倉で散逸してしまったとしても、不思議ではない。むしろ自然なことなのかもしれない。

歴史の力学のなかに消えた一族の痕跡

こうして見ると、「吉松家の公的な歴史が残りにくい理由」は、単なる偶然ではなく、
秀吉政権による九州再編という大きな歴史の力学の中で、敗者の側にいた地域の記録が薄れていった結果であると考えられる。

この視点なしに吉松家の歴史を理解することは難しいし、また、残された断片的な史料の重要性がいっそう際立つとも感じられる。

吉松の祖・定家は
どこから来たのか?

661年、斉明天皇によって恵蘇八幡宮の宮司を命じられた吉松定家は、一体どのような経路で朝倉の地にやって来たのだろうか。

ここでは、今回の調査によって見えてきた手がかりから、新たに提案したい二つの仮説を整理しておきたい。

「中臣鎌足」と祭祀の実務部隊「卜部」

吉松系図には「卜部定澄五世的傳(卜部定澄の五世の孫なり)」という、出自を解く鍵となる記述が残されていました。

「卜部(うらべ)氏」とは、古代の朝廷において亀の甲羅を用いて吉凶を占うなど、神祇官として実務を担った祭祀氏族です。そして彼らの上司にあたるのが、あの中臣鎌足(なかとみのかまたり)率いる「中臣氏(後の中臣・藤原氏)」でした。

661年の朝倉行幸には、中大兄皇子の側近として中臣鎌足も随行しています。この時、祭祀の最高責任者でもある鎌足が、実務部隊として手足となる卜部氏の一族(定家)を伴って現地入りしたと考えるのが、最も自然な流れです。

墓碑銘と古墳が語る「藤原」のアイデンティティ

定家が「中臣・藤原」の系統に連なる人物であった証拠は、文献の中だけではありません。 江戸時代の吉松家当主(吉松種政など)の墓石や縁起書には、「吉松修理藤原種政」や「藤原種吉四代孫」といった署名が残されています。 彼らは自分たちのルーツが「中臣・藤原」にあることを強烈に意識し、公的な場では誇りを持って「藤原」姓を名乗っていたのです。

さらに、吉松家が代々守り続けてきた「宮野神社」にも決定的な痕跡があります。 この神社は中臣鎌足が創建したと伝わり、祭神には中臣氏の祖神である「天児屋根命(アメノコヤネノミコト)」が祀られています。そして地元には、ここが「藤原氏祖先の墓」であるという伝承さえ残っているのです。

境内に現存する小規模な円墳(丸い古墳)も重要です。その形状は、646年の薄葬令以降に見られる古墳の特徴(小型化・円墳化)と一致しており、定家が活躍した7世紀後半〜8世紀初頭のものと考えられます。 鎌足本人の墓は関西にありますが、この朝倉の円墳は、遠征先で客死した中臣氏ゆかりの人物、あるいは定家その人の墓なのかもしれません。

「吉」を「待つ」という国家との契約

病に倒れた斉明天皇(あるいは中大兄皇子)は、定家にこう命じたという伝承があります。

「待異国降伏之吉(異国降伏の吉を待て)」

唐や新羅という強大な敵に対し、武力だけでなく、祈りの力で降伏させる好機を「待て」。 定家はこの勅命を奉じ、家名を「吉松(吉を待つ)」と改めました。

それは単なる改名ではなく、「私は逃げも隠れもしない。国家のために祈り続け、その時を待つ」という、朝廷と交わした重い契約の証だったのです。

吉松定家とは何者だったのか。 彼は、漂着した一介の旅人でも、在地の農民でもありませんでした。 国家存亡の危機に際し、中臣鎌足の指揮下で「対外戦争の勝利」と「怨霊鎮魂」という特命を帯びて朝倉へ送り込まれた、古代日本の精神的支柱を担う官僚だったのかもしれません。

朝倉の地に1400年続く吉松家の歴史。その第一歩は、日本の命運を背負った、あまりにも重い「祈り」から始まっていたのです。

吉松の由来

朝倉吉松家の「吉松」という姓の由来については、公的な文献に明確な記録は見つかっていない。
一般には、一族が暮らした土地やゆかりのある地名を姓とする例が多いが、朝倉の吉松家の場合、そのような痕跡を示す史料は確認できない。

古くから語り継がれる口伝

一方で、吉松家内部には、興味深い口伝が残っている。

博多吉松家の43代にあたる千代(吉松隆太郎氏の母親)は、隆太郎に以下のことを伝承していた。

吉松家の家系図に、「待異国降伏之吉」という言葉がある。
これは、661年、吉松家が恵蘇八幡宮の宮司家となった際、
斉明天皇から「これから日本は唐・新羅の連合軍と戦う。あなたはこの八幡宮で全身全霊を込めて神に祈り、唐・新羅が降伏したという吉報を待ちなさい」
という旨の使命が与えられたことを意味する。
そこから「吉報」の“吉”と、「待つ(まつ)」の“まつ”を合わせて「吉松」と名乗るようになった。
つまり、吉松家は軍神である八幡様と心を一つにして吉を待ち続ける家である

“待”ではなく“松”を用いる点については、一見不自然に思えるかもしれない。しかし「松」という字は、古くから日本文化の中で特別な意味を帯びてきた。

たとえば「松」という字は、『古事記』や『万葉集』にも頻繁に登場し、とくに『万葉集』では70首以上に「松」という字が含まれた歌が詠まれている。そこでは松が「実のならない木には神が憑く」と記述され、神聖視されていたことがうかがえる。
現代でも松竹梅という表現があるように、「松」は長寿・繁栄・神聖のイメージを帯びた、縁起の良い文字であった。

そうした背景を考えれば、「吉報」の“吉”と「待つ」の“まつ”を重ねながらも、あえてより縁起のいい“松”を用いたという発想は、十分にあり得るものだ。

歴史的背景から見ても不自然ではない命名

また、この口伝が語られる時代背景を見ても、特別な任務を担った人物に新たな姓が与えられることは決して珍しいことではなかった。

ちょうど同じ頃、藤原氏の祖・中臣鎌足が天智天皇から「藤原」の姓を賜った例があるように、政治的役割や特別な奉仕に応じて、天皇が姓を授ける慣習が存在していた。

したがって、「吉松」という姓が天皇によって与えられた、あるいは天皇から与えられた使命に応じて自ら名乗ったという可能性も、伝承であるにしても十分に想像できる範囲にある。

また、661年の当時にこの姓を名乗り始めていなくても、後の世代で自分たちが斉明天皇に与えられた使命から名乗り始めたのかもしれない。

土佐の吉松という“もうひとつの謎”

さらに調べる中で、もうひとつ興味深い事実に出会った。
土佐国(高知県)の朝倉にも「吉松」という姓が多いのである。

しかもこの土佐の「朝倉」にも斉明天皇の行幸伝承が残っている。

また、地理的にみても、

  • 福岡県朝倉市:北緯 33.42°

  • 高知県朝倉 :北緯 33.53°

とほぼ同緯度で、地図上では、福岡の朝倉から太平洋に向けて一直線にたどると、その延長線上の終点が高知の朝倉に重なる。

偶然かもしれない。
偶然にしては出来すぎている気もする。

こうした“点と点”の一致が、歴史のロマンをかき立ててくれる。

文献に残らないからこそ浮かび上がる物語

こうしてみると、「吉松」という姓の由来は史料上では不明なままでありながら、口伝・地名・時代背景という複数の断片が重なり合うことで、むしろ当時の空気感や一族の歩みが静かに立ち現れてくる。

確かな文献記録が存在しないからこそ、残された言葉や土地に宿る記憶が持つ意味が、より鮮明に感じられるのかもしれない。

吉松家の家紋

吉松家の家紋は現在の宮野吉松家の本家筋を除き、他の分家においてはすべて桔梗(ききょう)を使用しているが、地域や男女で異なる3つのパターンが有る。

A

輪紋

定紋(男紋)

博多吉松家
杷木吉松家

B

裸紋

女紋

博多吉松家

C

覗き紋

女紋

杷木吉松家

この分類の他にも、男女問わずCの覗き紋を使用している家もあったりと、正式な分類は分からない。

吉松家が桔梗の紋を使用を始めたはっきりとした時期は残っていませんが、一般的な家紋の使用時期は、

  • 公家:平安中期(11世紀)から使用

  • 武家:鎌倉時代に広まる

とされており、戦国期(16世紀)には旗や指物に家紋が染め抜かれた歴史がある。

吉松家は秋月家の一族に連なるため、家紋を早くから用いていた可能性は高いと考えられる。

また、江戸時代の庄屋クラスになると、庶民も家紋を使い始めたとされており、吉松家もこの流れの中で桔梗紋を日常的に用いるようになったのかもしれない。

複数のパターンが見られる理由として考えられるのは、元禄文化の頃に家紋の装飾化が進み、

  • 町人が多様なデザインを好む

  • 女性たちが歌舞伎役者の紋を髪飾りや小物に使う

といった文化が広がりました。女紋が生まれた背景には、こうした当時の流行文化も影響していた可能性があるのかもしれない。

参考図書の「吉松系図解読」にて著者の一人吉松隆太郎氏はこう述べている

どうか、これからの世代の皆さんにも、吉松家が大切にしてきた桔梗紋を忘れずに受け継いでいってほしい

吉松家全史物語

すべて読み終えたとき、「吉松家とは何者であり、朝倉という土地とどのように関わってきたのか」を網羅的に理解できることを目的として物語形式の吉松家全史を準備しました。時代背景と合わせて深く吉松家について知りたい方はぜひ、こちらをお読みください。

最後に

以上が、宮野吉松家の概要になります。
朝倉の歴史に詳しい方であっても、すべてを理解するには決して易しくない内容だったかもしれません。

それでも、最後まで本サイト「宮野吉松系図概要」をお読みいただき、本当にありがとうございました。

そして、この調査をここまで形にすることができたのは、何よりも、吉松家の歴史を守り、つなぎ、残してくださった先人たちのおかげです。
以下では、その大切な方々の歩みを簡単に紹介させていただきます。

吉松種政さん

宮野吉松家35代目にあたる人物です。
虫に食われ破れかけていた古い系図を、丁寧に書き写し後世へ残してくださいました。
もしこの写しがなければ、私たちは今日のように先祖をたどることはできなかったでしょう。

種政系図※紛失

吉松家の分家である「宮野吉松」の先祖である吉松種政(35代)が、寛文8年(1668年)に苦心して書き写し改めた系図

種政が自筆で清書・完成させた系図は、完成後に本家(田中村)または自身の家(宮野)に保管された可能性がありますが、現在は一部も残っておらず、種政の没後約100年以上が経過した文政・天保年間(1820年代から1840年代頃)に、吉松家の分家「博多吉松」の直江(種煕の娘)による記録として、この書物が存在したことが分かっています。

種政自身が系図の欄外に、「此時古系図依虫喰種政写改之寛文之項戌申年也」(古くから伝わって来た系図は虫に食われそうになっているので寛文8年(1668年)にこれを写し新しくした)と明記していたようです。

種政が生きた時代を想像すると、恵蘇八幡宮の主座祠官を退いた本家32代の吉松種良(1651年没、推定85歳)の晩年に、種政は八幡宮の歴史や吉松家の大事件について詳しく聞く機会があったと見られます。

そして、種良が亡くなる前に虫食いの古系図を託され、「清書してほしい」と依頼されたのではないか、と推測しています。

渡された系図は1560年ごろに作られたもので、初代定家から、少なくとも秋月家からの養子が入った27代吉松種助(定助)頃までは書かれていたと考えています。

種政は、約100年前に書かれたこのボロボロの系図の虫食い部分を判読して書き起こす作業と、古系図に書かれていない「極く最近の事柄」を書き加える作業を行ったのでしょう。

特に32代種良の項に力を入れて記述しており、豊臣秀吉の九州征伐(1587年)による吉松家と恵蘇八幡宮の大きな転機、主座祠官の退任、そして種良が吉松家を守るために行った行政的な手立て(弟の種栄に宮野神社の祠官を確保させるなど)を詳しく記録しました。

恵蘇八幡宮御縁起(下巻)

恵蘇八幡宮御縁起(下巻)の巻末
吉松種政と種継の署名が見える。

天和2年(1682年)吉田定俊著、巻末に吉松種政およびその子・吉松種次の署名あり。

豊臣秀吉の九州征伐(1587年)から95年後の泰平の世に、八幡宮の衰退を憂い、「八幡宮の歴史だけは書き残そう」という当時の祠官たち(神職、吉松修理種政らを含む)の思いを込めて作成されたことが伺えます。

  • 祭神の合祭:天武天皇の御代(672年)に、斉明天皇と天智天皇の二神霊を合祭するよう勅命が出されたこと。

  • 神社の衰退:かつて熱心に信仰し寄付を行っていた領主の秋月一家がこの地を去った後、八幡宮が全く衰廃してしまったこと。

  • 吉松家に関する記事:領主であった秋月種照が当時の祠官である吉松定助に対し、その祈とうの功により秋月家の通別の字である「種」の字を下賜したという、吉松家にとって重要な出来事が挿入されています。

これらのことが書かれており、現在も恵蘇八幡宮の社宝の一つとして大切に保管されているようです。

吉松直江さん

博多吉松家初代・吉松種煕の娘で、初代から40代目にあたります。
種政さんが書き写した系図をもとに新たに清書したのが直江さんで、現存する唯一の古系図「直江系図」を残しました。
今回の宮野吉松家調査の骨格は、すべてこの直江系図によるものです。

直江さんは、田中村(上座郡)で生まれ、父の種煕らと共に博多(福岡)に移住しました。彼女は医術を好み、筑後の高田氏や京都の賀川氏に師事して産婦人科の奥義を究めた女医であり、身分の貴賤を問わず平等に診療したため大変繁盛したそうで、文久元年(1861年)に亡くなりました。

直江系図(大蔵姓系譜)

直江系図の一部(吉松祖の部分)

吉松家第39代種煕の四女である直江による著書

吉松家に唯一現存する系図であり、「大蔵姓系譜」というタイトルで吉松直江が書いた大蔵と吉松家の系図でここでは、「直江系図」と呼んでいます。

系図に書かれた最後人物が生きた時代から推察すると、直江は、1820年前後にこの系図を完成させたと考えられます。

また、この系図は豪華な巻物ではなく、質素な作りであるため、家宝のような扱いではなく、また、系図の最後は当主ではなく、種重の七男(種煕)の女子というところで終わっていることから、あくまでも直江自身の「手控え」として作成されたと考えています。

直江は、寛文8年(1668年)に分家の種政が書き写し、補筆していた虫食いの古い系図(種政系図※紛失)を自分で新しく写し、その後途絶えていた系譜を調査して書き加えることで、吉松家の大な歴史を現代に伝える奇跡的な巻物として残しました。

系図のタイトルが「大蔵姓系譜」となっているのは、吉松家が秋月家を介して大蔵(原田)氏という有名武将を輩出した名門の血統を引いていることを誇りに思ったためと考えられます。

吉松義典さん・道哉さん兄弟

杷木吉松家の出身で、初代から45代にあたる方々です。

兄・義典さんは北九州に住まわれながら、朝倉へ先祖調査に入り、田中吉松家の墓を発見し、『吉松家之墓地発見記』を残されました。
この記録はのちに『吉松家系図解読』の重要資料となりました。

弟・道哉さんは栃木で医師をされていた方で、『吉松系図解読』の中心メンバーとして大きく貢献されました。
現代の吉松家研究の礎を築いた存在です。


吉松隆太郎さん・静子さん夫妻

隆太郎さんは博多吉松家の出身で、初代から44代目にあたります。
奥様の静子さんとともに『吉松家系図解読』の制作に深く携わり、特に隆太郎さんは膨大な史料を読み解き、文章化された中心人物です。
このご夫妻がいなければ、吉松家の歴史は今ほど明瞭に残らなかったでしょう。


平川亮一さん・平川家の皆様

隆太郎さんのいとこにあたり、杷木吉松家ともつながる人物です。
道哉さんと隆太郎さん夫妻が出会い、協力関係を築くきっかけをつくったのも平川さんでした。

そして何より、今回の調査の“初めの一歩”となった直江系図は、平川家の仏壇から埃をかぶった状態で見つかったものです。
自家のものではない系図を長く大切に保管し、未来へ手渡してくださった平川家の皆様の存在なくして、今回の調査は成り立ちませんでした。

吉松家先祖之墓地発見記

田中吉松家の墓地を発見した際に撮影された写真
筑後川の水害で倒壊していた様子が伺える。

杷木吉松家(本家)の45代である吉松義典(よしのり)氏が、書かれた体験探訪記(手記)

義典さんは、田中村(田中浜)に江戸時代に庄屋を務めた先祖の墓地あると伝承されてきた口伝が長年気になっており、それを見つけ、供養することを目的に探訪した際の出来事や発見をまとめています。

重要な発見として、お寺の過去帳(教念寺)田中村の庄屋であったという系図の記述を見つけ、法名などの記録により実証しました。

また、1953年の大水害によって荒れ、墓石が倒壊・散乱した状態の主要な先祖の墓石を発見しました。

この発見記は、吉松家の歴史を実証する上で非常に重要な役割を果たしました。

吉松家系図解読

吉松系図解読の表紙

吉松家の1339年間にわたる歴史を子孫に伝えることを目的として、吉松隆太郎(博多吉松44代)と吉松道哉(杷木吉松45代)の二人が共同で著した書籍です。

この本は、単に系図を写したものではなく、吉松家に唯一現存する系図である「大蔵姓系譜」(直江が写筆したものと推定される)を基に、その内容を詳細に分析し、現代文で解読・解説を加えた研究書としての性格を持っています。

1. 執筆の背景と目的

共同執筆の動機:著者の一人である隆太郎氏は、母親(千代)から受け継いだ系図を「いつか先祖の地を訪ねて」調査し、解読するよう託されたという宿題の答えを書くため。

もう一人の著者である道哉氏は、吉松家の歴史調査に熱心であった二人の兄(信行、義典)の遺志を完成させるという願いにより、両者の望みが完全に一致して執筆が開始されました。

2. 扱う資料と歴史の範囲

博多吉松の隆太郎氏が50年間にわたり銀行の貸し金庫で大切に保管してきた巻物「直江系図」をベースに書かれています。

この巻物は、主に分家である博多吉松の先祖にあたる直江(種煕の娘)が、虫食いで朽ちかけていた古い系図(種政が寛文8年/1668年に書き写したもの)をさらに写し取り、調査を加えて完成させたものです。

吉松家の初代定家が恵蘇八幡宮の祠官に選ばれた西暦661年(斉明天皇の時代)から始まり、恵蘇八幡宮の祠官を926年間、32代にわたって務めた歴史を中心に、江戸時代を経て、現代に至るまで(隆太郎氏と道哉氏の代まで)の系譜を扱っています。

3. 研究内容と特徴

本書は、単なる系図の羅列に留まらず、歴史的傍証をもって系図の記述を検証しています。

著者らは、遠隔地(大阪と栃木)に住みながらも、先祖の地である筑前国朝倉(現在の朝倉町大字山田、田中、宮野など)を何度も訪れ、恵蘇八幡宮の社宝(縁起書)や上寺の教念寺に残る過去帳、そして分家・本家の墓石などを確認しました。

  • 謎の解明

    系図の表題が「大蔵姓系譜」である理由:吉松家が秋月家を介して大蔵(原田)氏という名家の血統を受け継いだことを誇りに思っていたため。

  • 吉松家と領主秋月家の関係性(祠官の娘が領主の正室になり得たか)を、他国の資料(大友氏の八幡信仰)を参照して検証。

  • 系図が江戸時代に流行した偽系図ではないことの証明(種政が書き改めた時期が流行より140年も古い1668年であったこと)。

  • 構成
    巻頭には現存する系図の縮小コピーが掲載されており、本文では大蔵氏・秋月家の歴史から始まり、吉松家が祠官を離れて以降の「山田吉松」「宮野吉松」「杷木吉松」「博多吉松」の変遷が、各章で詳しく解説されています。

この本は、戦乱や時代の流れの中で途絶えかけた系図を、種政直江という二人の人物が苦労して継承し、さらに現代の二人の著者が調査し解読することで、1300年以上の家族の軌跡を現代に伝える「奇跡的な巻物」の内容を、子孫のために集大成したものです。

吉松政幸さん

宮野吉松家12代・吉松倉吉の孫にあたる人物と考えられています。
幼い頃、私の家族にいま暮らしている土地を譲ってくださった方でもあります。

政幸さんは宮野吉松家の墓石群を細かく調査し、伝承や歴史を資料として残してくださいました。
近代の宮野吉松家について分かっていることの多くは、政幸さんの記録があってこそ知り得た情報です。

政幸資料

政幸さんが残した資料の一部

宮野本家の隣に住んでいた、吉松政幸が自身が周りから聞いてきた口伝や疑問を残した資料および、住居目前にある宮野吉松家の先祖墓石群を調査した資料。

そして、ここで挙げた方々だけでなく、今もなお、先祖から受け継いだ伝承を守り、子どもたちへ語り継いでくださっている吉松家の皆さまがいます。
その積み重ねがあったからこそ、“朝倉の吉松”は今日まで確かに続いています。

今回の調査によって、こうした先人たちの意思を少しでも受け継ぎ、吉松家の歴史を未来へとわかりやすい形で残すことができていれば、これ以上の喜びはありません。

また、後世の方へ。
本調査においては、先人の調査研究に最大限の敬意を表しつつ、史実との相違が見受けられるであろう箇所については、客観的な新説を優先して記述いたしました。

もちろん、家の歴史が由緒正しきものであることは、一族の誇りとなり得るでしょう。しかし吉松家の歩みは、一族の心の拠り所であるのみならず、朝倉および日本史の一端を担う貴重な事例でもあると考えています。それゆえ、史実に対し誠実であることを最優先と判断いたしました。

将来、本調査の内容に誤謬が発見されたならば、後世の皆様の手によって根拠ある修正が加えられ、真実の歴史として語り継がれていくことを切に願っております。

2025年1月15日
坂田 拓也 (宮野吉松家)