第二章:平安・鎌倉期

奈良の都で大仏建立の槌音が響いていたころ、遠く離れた筑紫の朝倉の地にも、時代の軋む音が届いていた。

天平15年(743年)。朝倉の空は、ねっとりとした湿気を帯びていた。 恵蘇八幡宮の社殿にて、第3代当主・吉松定秀(よしまつさだひで)は、都から届いた太政官符(お触れ書き)を前に、震える指先を抑えることができなかった。 そこに記されていたのは、この国の形を根底から覆す「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」という文字であった。

「公地公民……。すべての土地と民は帝のものという、あの高潔な理想は、もはや死んだというのか」

定秀は、眼下に広がる朝倉の原野を見下ろした。これまでは、645年の大化の改新により唐の政治制度を参考に律令制(中央集権政治)を導入した日本は、班田収授の法と呼ばれる土地所有制度を導入し、汗水を流して荒れ地を拓いても、それは一代限りの借物であり、死ねば国へ返さねばならなかった。それが今日より、「永久に己が私有物にしてよい」というのだ。 表向きは、開墾を促す徳政のように見える。実際、有力な貴族や寺社は、色めき立って人を集め、競うように荘園(私有地)を広げ始めている。

だが、定秀の胸に去来したのは、歓喜ではなく、底知れぬ恐怖であった。 「土地が『国のもの』でなくなる。それはすなわち、国が我らを守る義務を放棄するということではないか」。 土地が私有財産となれば、それを奪おうとする者が現れる。隣村との境界争い、流民による略奪、飢えた野盗の襲撃。これまでは「お上の土地」を侵す者は国が裁いた。だがこれからは、自分の土地(シマ)は、自分の力で守らねばならぬ。

「鍬(くわ)の横に、弓矢を置かねばならぬ時代が来る」。 農民や豪族たちが武装し、殺し合いを始める。後に「武士」と呼ばれる存在が胎動し始めたその瞬間を、定秀は肌で感じ取り、戦慄していた。

1.紅蓮の炎と征西大将軍

定秀の予感は、最悪の形で現実となった。 それから約200年の時が流れた承平・天慶年間。第10代当主・吉松定政(よしまつさだまさ)の時代、筑紫の海は血の色に染まっていた。

「海賊王」藤原純友(ふじわらのすみとも)。 かつては伊予の海賊を取り締まる役人であったはずの男が、あろうことか海賊の首領となり、数千艘の大船団を率いて蜂起したのである。日振島を拠点としたその勢いは凄まじく、ついに九州統治の心臓部である大宰府へと牙を剥いた。

定政は、朝倉の山中から、西の空が不吉な赤色に染まるのを見ていた。夕焼けではない。 「大宰府が……燃えている」。 黒煙が天を覆い、逃げ惑う人々の悲鳴が風に乗って聞こえてくるようだった。政治の中枢が炎上し、略奪の限りを尽くされる様は、律令国家の完全なる敗北を意味していた。 「このままでは、国が滅ぶ」。

絶望が朝倉を覆い尽くそうとしたその時、都から一筋の光が差し込んだ。 朱雀天皇より「錦の御旗」と「天国の短刀」を授かり、「征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)」として荒れ狂う海賊を討つべく送り込まれた追討軍。その先頭に立つ一人の武将こそ、後に吉松家の運命を決定づける英雄、大蔵春実(おおくらはるざね)であった。

春実は、漢の高祖・劉邦の末裔を称する名門家系の人物である。彼は、小野好古と共に九州へ上陸するや否や、博多、そして肥前(佐賀)の戦場で鬼神の如き武勇を見せつけ、藤原純友の乱の鎮圧に成功した。

乱の後、春実は都へ帰らなかった。 「都で書類をめくるだけでは、国は守れぬ。私はこの筑紫に残る」。 彼は大宰府の府官としての地位を得つつ、自らの拠点を肥前の基山から、交通の要衝である筑前・原田(はらだ)へと移した。そして、由緒ある「大蔵」の姓に加え、土地の名である「原田」を名乗り、「土着」することを宣言したのである。 原田、秋月、高橋、江上……。後に九州全土を覆う巨大武士団「大蔵党(おおくらとう)」の歴史は、ここから始まった。

2.神と武人の契約

乱が平定された直後のことである。天慶4年(941年)、吉松定政が守る恵蘇八幡宮の鳥居を、鎧姿の武将がくぐった。 征西大将軍、大蔵春実である。 戦場での血の匂いを纏った英雄の眼光に、定政は思わず息を飲んだ。だが、春実の口から出た言葉は、意外にも静謐なものであった。

「定政よ。この地は、かつて斉明天皇が『朝倉橘広庭宮』を営み、百済救援の指揮を執られた由緒ある場所であるな」 「は、はい。左様にございます」 「しかし、今の八幡宮には、その斉明天皇と、志を継いだ天智天皇がお祀りされていないようだが?」

定政はハッとした。初代・定家が勧請したのは武運の神・応神天皇(八幡神)であったが、この土地に眠る記憶そのものである二帝の御霊までは、主祭神として祀っていなかったのだ。 春実は、朝倉の山並みを見上げ、厳かに告げた。 「これより、八幡神に加え、斉明天皇と天智天皇の二柱を合祀せよ。この地を守るには、その歴史のすべてを神として敬う必要がある」

さらに春実は、もう一つの重要な提案を口にした。 「そして定政、そなたの役目は八幡宮だけではない。この近くにある宮野神社と、老松大明神もあわせて祀るのだ」

宮野神社は、かつて斉明天皇の行幸に同行した中臣鎌足(藤原鎌足)が創建したと伝わる由緒ある社だ。 「恵蘇八幡宮、宮野神社、老松神社。これら三社を合わせ、これより『老松三社大明神(おいまつさんしゃだいみょうじん)』と称するがよい。そしてそなたがその総大宮司となり、この地の祈りのすべてを束ねるのだ」

そして、春実は腰の太刀に手をかけ、信じがたい言葉を継いだ。 「その祭祀を絶やさぬよう、私が朝廷から預かる権限において、朝倉郷のうち七百余町を『免上地(めんじょうち)』として寄進しよう」

「な、七百町……!?」 定政は耳を疑った。それは、筑前の平野部がすっぽりと収まるほどの広大な土地である。「免上地」とは、税を納めなくてよい特権的な神領のことだ。 「我ら大蔵一族と吉松家は、これより神と武の絆で結ばれる。そなたは祈れ。我らが剣でその祈りを守ろう」

この瞬間、吉松家は単なる一社の神職から、複数の神社を統括し、神領として広大な領地を名目上保有する存在へと変貌を遂げた。ただし、この時点で吉松家が実際に行政や徴税を担う能力を持っていたわけではない。

実務としては、大蔵氏が七百町の土地管理を行い、その収益のうち、祭祀儀礼や神社運営に必要な分が吉松家に渡される、という形が取られたと考えられる。

こうして、 大蔵氏(後の原田・秋月氏)という九州最強の武士団を後ろ盾に、吉松家は地域の精神的・実質的な支配層として、朝倉の地に君臨することになったのである。

【余談】平安期の朝倉の領主について

前項でも触れた通り、平安時代に入ると、日本の土地制度は大きな転換期を迎えます。それまで土地は原則として天皇のものであり、私的に新たな土地を開墾することは認められていませんでした。しかし、墾田永年私財法の施行によって、新たに開墾した土地は永年にわたり私有してよい、という考え方へと移り変わっていきました。これにより、日本各地では貴族や寺社が所有する私有地、いわゆる荘園が生まれ、次第に拡大していきます。

この時代、現在の朝倉地域は「上座」と書いて「かみつあさくら」と呼ばれていました。上座における土地所有の具体的な実態については、いまだ不明な点が多く残されていますが、9世紀中頃の状況をうかがわせる史料は存在しています。855年、前田臣市成(まえだのおみ・いちなり)という人物が、上座郡の大領(地方官)として善い政治を行ったことを賞されたという記録が残る書物が確認されています。

この記録は、当時の上座が、地方の有力貴族や寺社によって支配されていたのではなく、朝廷から派遣された官人によって統治されていた可能性を示しています。もしそうであれば、この頃の上座には、荘園と呼べるほど大規模な私有地は、まだそれほど形成されていなかったと考えるのが自然でしょう。

その後、10世紀に入り、941年の藤原純友の乱において武功を挙げた大蔵春実が、上座を含む筑前一帯を朝廷から与えられ、その土地を社家である吉松家に免上地として寄進したと考えるならば、時代の流れとして無理のない一つのストーリーが成立します。

もっとも、吉松家に寄進された土地の規模として伝えられる「700町」という数字については、慎重に評価する必要があります。700町は非常に広大な面積であり、この数値が後世の伝承や系図の中で拡大されて伝えられている可能性は十分に考えられます。

実際、その後の上座周辺には、「秋月荘」「三奈木荘」「蜷城荘」など、複数の荘園の存在が確認されています。これらの荘園の成立を踏まえると、上座一帯が長期にわたって単一の社家によって一括支配され続けていたとは考えにくく、土地の支配構造が時代とともに変化していったことがうかがえます。

このことから、仮に寄進当初の規模が700町であったとしても、その後、祭祀や神社運営に必要な費用を賄う過程で土地の一部が手放され、あるいは分割・再編されることで、吉松家が実質的に支配する土地の範囲は、時代の進行とともに徐々に縮小していったと考える方が、より現実的であると言えるでしょう。

3.壇ノ浦の落日と喪失

時は流れ、平安末期。 栄華を極めた平家一門の威光は、九州の地にも及んでいた。 第18代当主・吉松定方(よしまつさだかた)の時代、吉松家の主君である原田種直(はらだたねなお)は、平重盛の養女を妻に迎え、大宰府の長官として3700町歩もの所領を誇っていた。 「平家にあらずんば人にあらず」。その言葉通り、原田氏の傘下にある吉松家の免上地もまた、平家の守りを受けることで盤石であるかに見えた。

だが、歴史の歯車は無慈悲に回転する。 源頼朝の挙兵、木曽義仲の入京。追われた平家一門は、九州の大宰府へと落ち延びてきた。原田種直は、安徳天皇と平家一門を自身の城に迎え入れ、最後まで忠義を尽くして戦った。

そして、文治元年(1185年)。関門海峡、壇ノ浦。 潮の流れが変わると共に、平家の赤旗は次々と海面へと没していった。 種直率いる九州武士団も奮戦したが、源義経の神がかり的な采配の前に敗れ去った。種直は捕らえられ、鎌倉へと護送され、13年もの幽閉生活を強いられることとなる。

「終わった……」 朝倉の地で敗戦の報を聞いた定方にとって、それは悪夢の始まりだった。 勝者である源頼朝は、容赦がなかった。平家に味方した原田氏は「平家与同張本(へいけよどうちょうほん)の輩」として断罪され、領地は没収された。 かつて大蔵春実公から寄進され、数百年守り抜いてきた「朝倉の免上地七百余町」もまた、「平家没官領(へいけもっかんりょう)」として、新政府・鎌倉幕府に取り上げられてしまったのである。

後ろ盾を失い、免上地を奪われた吉松家は、ただの神官に戻り、荒野に放り出されることを覚悟した。 鎌倉から派遣されてくる見知らぬ地頭たち。彼らは土地への愛着など持たない冷徹な管理者だ。朝倉には巨大な「力の空白」が生まれ、定方は無力感に打ちひしがれていた。

その後、鎌倉幕府は1185年(元暦2年)に各地に守護(軍事・警察)・地頭(徴税など)を担当する御家人を任命した。

原田氏が没落した筑前地域の支配も、鎌倉幕府から派遣された御家人が担当してたが、この頃の朝倉地区の支配の実態はよく分かっておらず、事実上、一時的に支配者の空白地帯と移行したと見られ、各地における領主的な業務は、従来からその土地に根を張っていた土着の武家や豪族が行っていたと考えられる。たとえば、朝倉の須川地域では、13世紀頃には筑後星野家が領主であったとする伝承が残されており、こうした在地勢力が鎌倉幕府の支配体制を下支えしていた実態の一端をうかがうことができる。

また、関東で幽閉されていた原田種直は、結果的に1190年に赦免された後に、鎌倉幕府の御家人として、筑前国怡土庄(いとしょう、現在の糸島市)において、幕府への租税徴収を主な任務とする地頭に任じられる。

これにより原田氏は、かつて筑前一帯を支配する立場にあった有力氏族から、鎌倉幕府の支配体制の一翼を担う一武士へと、その位置づけを大きく変えることとなった。

4.古処山城の雷鳴と再生

だが、原田(大蔵)の血は死に絶えてはいなかった。 建仁3年(1203年)。鎌倉幕府内部の権力闘争の隙を突き、一人の男が復活の狼煙(のろし)を上げた。 原田種直の弟とも、一族の勇将とも伝わる男、原田種雄(はらだたねかつ)である。 彼は「敗者」の汚名を着せられながらも、爪を研ぎ続けていた。

この頃、鎌倉幕府内部では、将軍・源頼家の後継と政権運営をめぐって対立が深まっていた。将軍の外戚である比企能員を中心とする比企(ひき)氏は、頼家の権威を背景に実権を掌握しようとしており、これに対し、北条時政を中心とする北条氏は強い警戒を抱いていた。

種雄がどのような立場であったかの詳細は不明だが、2代将軍・源頼家の側近や比企一族に連なる人々の動きが把握できる立場にあり、比企能員(ひきよしかず)らが北条氏排除に向けて動いていることを把握したとされる。

そして、種雄はこの情報を、比企氏と敵対する北条時政側に伝えた。これは、将軍外戚である比企氏の側に与せず、執権北条氏の側に立つという難しい選択であった。

この情報提供を受け、北条氏は先手を打ち、比企能員を討つ。いわゆる比企能員の変である。この政変によって比企一族は滅亡し、将軍・源頼家もほどなくして将軍職を追われ、幽閉され、1204年には北条氏の刺客に暗殺された。

原田種雄は、この一連の政変において、戦闘ではなく情報提供によって北条家という新しい鎌倉幕府中枢に貢献した御家人として認識されることとなった。

「原田種雄よ、その功、見事である」 鎌倉幕府より下された恩賞。それは、筑前国朝倉の山間にある「秋月荘(あきづきのしょう)」の支配権だった。

これにより、原田氏は、かつての筑前支配層から一度は没落しながらも、鎌倉幕府の御家人として再び筑前・朝倉の地に拠点を得ることとなった。

種雄は一族を率いて、朝倉の北にそびえる標高859メートルの険しい山、古処山(こしょさん)を見上げた。 「平地の城は脆い。だが、あの雲を突く山頂に城を構えれば、いかなる大軍も手出しはできぬ」 種雄は山頂に難攻不落の古処山城を、麓の宮園に居館を築き、高らかに宣言した。 「もはや『原田』の名には戻らぬ。私はこの土地の名をとり、これより初代・秋月種雄(あきづきたねかつ)と名乗る!」。

これは、平家と共に沈んだ古い過去との決別であり、武家社会での「再生」の咆哮であった。 この秋月家の誕生は、朝倉で途方に暮れていた吉松家にとっても、暗闇を切り裂く雷鳴となった。 「我らには、まだ従うべき主君がいる」 再び強力な武力を得た吉松家は、秋月家と連携し、新たな防衛体制を構築し始める。

時を同じくして、朝倉の南側、筑後川を挟んだ対岸の湿地帯「菅生(須川)」には、筑後の名門・星野(ほしの)氏が進出していた。 星野氏もまた、大蔵氏と同じ祖を持つ同族である。 「北の険しい山岳は秋月が守る。南の川と湿地は星野が固める。そして中央の平野は吉松が祈り、治める」。

こうして、鎌倉の世に、戦国時代まで続く朝倉の鉄壁の体制「北の秋月、南の星野」という最強の布陣が完成したのである。 時代の荒波に揉まれ、一度は全てを失いかけた者たちが、再び手を取り合い、朝倉という大地に根を張り直した瞬間であった。

5.武藤家の太宰少弐任命の改姓

時間をさかのぼり、平家と源氏が対立していた時代に、平家方の武将として武藤資頼(むとうすけより)と呼ばれる人物がいた。資頼の出自については詳らかではないが、一説には中臣鎌足を祖とする藤原氏の血筋を引く名門家系の出自であったとも伝えられている。

武藤資頼は当初平家に仕えていたが、一ノ谷の戦いの際に源氏方へ投降し、その後許されて源頼朝の家人となった。

その後、1282年、資頼は「大宰少弐(だざいしょうに)」に任じられる。大宰少弐とは、古代・中世において九州全体を統括した行政機関である大宰府の次官、いわば実務を担うナンバー2の役職であった。

頼朝は、旧来平家方であった九州の武家勢力を抑えるため、鎌倉幕府における九州の要として武藤氏を抜擢した。これにより武藤資頼は、幕府直属の地方統治を担う(鎮西奉行)と同時に、北部九州諸国の守軍事指揮権および警察権を掌握する立場(守護)に立つこととなる。

この「大宰少弐」という官職に就いたことを契機として、武藤氏は次第に「少弐氏」を名乗るようになった。そして、源頼朝によるこの抜擢こそが、その後の少弐氏の興隆の出発点であった。

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