第四章:安土桃山期
1. 古賀家との出会い
【主人公:古賀新左衛門重儀(こが しんざえもん しげよし)】
我が身に流れる血は、かつて九州を統べた名門・少弐(しょうに)家のものだ。少弐家は大蔵氏が没落した後に大宰少弐の職を賜り筑紫を支配した武藤資頼を祖とし、鎌倉の世、元寇(げんこう)の襲来で、元軍を撃退し、日本を守り抜いた英雄・少弐景資(かげすけ)の血脈である。
だが今の私は、泥にまみれ、鍬を握る一介の農民に過ぎない。
時は天文23年(1554年)。私が31歳の時、生き残るためにある決断をして、この朝倉の須川(すがわ)の地へ辿り着いたのだ。
時を遡り、時代は1506年。
私たち少弐一族にとって、この頃の戦国時代は悪夢のような日々だった。
かつては大宰府を拠点に筑紫(九州北部)の覇者として君臨していた少弐家だが、西国の巨大勢力・大内氏との戦いにおいて、圧倒的な兵力差の前に力尽き、無念の敗北を喫した。そして、この時に私の祖父も戦死してしまった。
その後、敵対する大内氏が少弐氏の一族を残らず捜し出して殺そうとしたため、私の父・重房(しげふさ)とその家族は、大内の目を逃れるため、故郷である御笠郡唐古賀(とうこが)を離れて、飯塚の穂波那弥山(ほなみ なみやま)の山奥へと身を隠した。 1523年、私はまさにこの飯塚の山奥で産まれた。
一方で、なんとか生き延びた少弐家当主・資元(すけもと)様は、肥前(佐賀)の地にて再起を図っていた。資元様は重臣である龍造寺氏を信頼して手を組み、大内氏へのリベンジの機会を伺っていたのである。
飯塚の山奥にいた父・重房は、遠く肥前の空を仰ぎ、希望を捨ててはいなかった。 「資元様が龍造寺とともに大内を打ち破れば、いつかまた、我々も胸を張って故郷・唐古賀に戻れる」 父はそう信じ、息を潜めてその時を待っていた。
しかし1535年、最悪の凶報が飯塚の父のもとに届く。 我々が重臣として信頼していた龍造寺家兼(いえかね)が、あろうことか敵である大内氏に通じ、主家である少弐家を裏切ったのである。 この卑劣な裏切りにより、当主・資元様は肥前の多久(たく)にて包囲され、無念の自害に追い込まれた。
「……もはや、これまでか」 頼みの綱であった当主・資元が敗れ、少弐家の再興の道は完全に途絶えた。 父・重房は悩み抜いた末に、一族を守るための非情な決断を下した。
「これより、わしらは生き残るために、『少弐』という姓は捨て、故郷の地名『唐古賀』から文字をとった『古賀』と名乗る。武士を辞め、農民となって家を存続させよう」
これが、私たち古賀家の始まりである。1546年のことであった。
そして、私が31歳になった1554年。かつて我々を追っていた大内氏はすでに没落し、世の情勢は変わっていた。
私は父の遺言に従い、農民として生きていく道を模索していた。その時、私の脳裏にある一つの場所が浮かんでいた。筑前朝倉の宮野である。 そこには、我ら少弐家の遠祖・中臣鎌足公が自ら創建したとされる由緒ある「宮野神社」が鎮座していることを、私は知っていた。
「ご先祖様にゆかりのある地ならば、きっと我らを受け入れてくださるに違いない」 私は迷うことなく、一族を率いて飯塚の山を下り、朝倉を目指すことを決心した。
宮野神社を訪ねると、そこは朝倉地域で最も権威のある社家の吉松家当主・吉松種家殿が大宮司を務めていた。 「種家殿。我らは少弐一族の末裔。大内氏が没落した今、山を下り、祖先・藤原鎌足にゆかりあるこの地へ、農民として生きる道を求めて参りました。」
すべてを打ち明けた私に対し、種家殿は深く頷き、快く受け入れてくださった。そして須川という地区の一部を切り開き、そこに新しく小さな村を作ることを提案された。我々は感謝と共に、すぐにその地へ住むことを決めた。
2. 秀吉の九州平定と秋月家の敗北
【主人公:第16代 秋月種実(あきづき たねざね)】
私は第16代、秋月種実。時は天正15年(1587年)。私は筑前、筑後、豊前にまたがる36万石もの広大な領地を誇り、『秋月の全盛期』を築き上げた自負があった。
南の島津と手を組み、宿敵・大友を追い詰めた時、天下は我らに味方していると信じていた。
だが、その自信は、上方から押し寄せた『怪物』によって、一夜にして打ち砕かれることになる。
その男の名は、豊臣秀吉
あの日、私は秀吉の軍勢を甘く見ていた。
「所詮は成り上がり者。九州の険しい山岳戦に耐えられるはずがない」
私は難攻不落と信じていた岩石城(がんじゃくじょう)で時間を稼ぎ、島津の援軍を待つつもりだった。
しかし、現実は悪夢のようだった。秀吉の大軍は、あの堅固な岩石城をたった一日で攻め落としたのだ。
さらに翌朝。
本城である古処山城(こしょさんじょう)から見た光景に、私は言葉を失った。昨日まで廃城だったはずの向かいの益富城(ますとみじょう)の城壁が、一夜にして白く修復され、巨大な城が出現していたのである。
「馬鹿な! 一晩で城を築いたというのか?」
実はこれ、秀吉が農民を集めて障子紙や白壁を張り巡らせた「張りぼて」の城だった。
だが当時の私には神業に見え、戦う意欲を根こそぎ奪い去り、私はついに降伏を決意した。
自慢の頭を丸めて剃髪し、白装束に身を包んで秀吉の本陣へ向かった。そして、私の命、いや秋月家の存亡をかけて、ある「切り札」を差し出した。
それは、天下三肩衝(てんかさんかたつき)の一つと称され、一国に匹敵する価値があると言われた伝説の茶器、「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」である。
さらに、名刀「国俊」と、愛する16歳の娘(後の城井朝房室・竜子)を人質として差し出した。
秀吉は、私の差し出した茶器を手に取り、満足げに頷いた。
「種実よ、その殊勝な心がけに免じて、命と家名は残してやろう。だが、この筑前の地からは立ち去れ。宮崎で島津を監視せよ」
下された処分は過酷だった。
先祖代々の土地である秋月・朝倉(36万石)は没収。代わりに与えられたのは、遠く離れた日向国(宮崎県)の高鍋(財部)、わずか3万石の地だった。領地は十分の一に減り、私たちは愛する故郷を追われた。
だが、秋月家は滅びなかった。
この屈辱を胸に、私たちは新天地・高鍋へと向かう。そこで生き抜き、幕末まで続く大名家として再起を図るのである。
この時、私たち秋月家に従って多くの家臣や民も共に移動した。
その中には、朝倉の地で共に生きた吉松家の一族の一部も含まれていたかもしれない。
こうして、鎌倉時代から約400年にわたって朝倉を支配した秋月家の時代は、終わりを告げたのである。
3. 吉松家最大の試練
【主人公:第32代 吉松種良(よしまつ たねよし)/当時21歳】
私は第32代、吉松種良。天正15年(1587年)の夏。朝倉の空気は、かつてないほど重く淀んでいた。
蝉の声がやけに耳につく。昨日まで威容を誇っていた古処山城からは、主君・秋月家の旗印が消えていた。
『秋月様が、去られた……』
それは、私たち吉松家にとって、単なる『主君の交代』では済まされない。破滅の足音が近づいてくることを意味していた
主君・秋月種実公は秀吉に降伏し、日向(宮崎)の高鍋へと去った。
代わりに、この筑前・朝倉の支配者となったのは、毛利元就の三男にして、秀吉きっての知恵者・小早川隆景(こばやかわ たかかげ)である。
父・種家と私は、屋敷の広間で地図を広げ、沈黙していた。
直接の命令はまだ届いていない。だが、新しい領主・小早川隆景がどのような政治を行う人物か、噂は風に乗って聞こえてきていた。彼は「合理」の男だ。古くからの権威や神仏の祟りなどを恐れるような、甘い武将ではない。
「種良よ、わかるか。今の我らの立場が」
父の声が低く響く。
私たち吉松家は、代々、恵蘇八幡宮の宮司(神職)でありながら、朝倉郡内の広大な土地を「神領(免上地)」として管理し、事実上の行政官(民部)として振る舞ってきた。
つまり、「神の威光」を盾にして、税を納めず、武士のように土地を支配する存在だ。
だが、秀吉の作る新しい世の中は違う。
「検地(けんち)」によって全ての土地を把握し、「刀狩り」によって武士と農民を明確に分ける。そこには、私たちのような『中途半端な特権階級』が存在する隙間など、どこにもない。
「小早川殿は、必ず我らの『神領』に手をつけてくるぞ」
父の言葉に、私は背筋が凍る思いがした。
「神の土地だぞ、罰が当たるぞ」などという脅しは、天下人・秀吉とその部下には通用しない。彼らは、我々が管理している土地を「隠し田」と見なし、没収するだろう。そして、武士の真似事をして行政を握る神官など、新しい秩序の邪魔でしかない。
「没収される……。土地も、宮司としての地位も、すべて」
まだ宣告されたわけではない。
しかし、構造的に、論理的に考えれば、吉松家の破滅は確定した未来だった。
私たちは、迫りくる「秀吉の配下・小早川」という巨大なシステムの前で、ただ立ち尽くすしかなかった。戦って勝てる相手ではない。かといって、このまま座して死を待つわけにもいかない。
「父上、どうすれば……。どうすれば、吉松の家と、この朝倉の祭りを守れるのですか」
21歳の私は、あまりに巨大な歴史の転換点を前に、震える手で膝を握りしめながら必死に戦略を考え、弟の種栄(たねひで)を呼び、こう告げた。
「種栄よ、秋月家が去って新しい支配者がこの地にくることが決まったいま、由緒あるこの恵蘇八幡宮の祠官として、吉松家がこれまでのように携わり続けるのは難しいだろう。なので、お前は宮野(みやの)へ行け。そして、宮野神社の祠官(しかん)として、吉松家が守ってきた『神へ祈り』を絶やすな」
弟には神職としての道を歩ませる。
これが「宮野吉松家」の始まりだ。彼は兄である私の猶子(ゆうし:兄弟から親子関係への変更)となり、由緒ある祭祀の正統な後継者として、宮野の地に根を張ることになる。
一方で、兄である私、種良はどうするか。
私は八幡宮のある山田の地を離れ、隣の田中(たなか)村へと移り住んだ。
「これまで民部と恵蘇八幡宮の主座祠官を務めてきた私は一線を退く。これからは長男の種仲(たねなか)に行政業務を覚えてもらうべく、『宮野・鳥集院・田中村の保正(村長)』の職を渡す。」
これは、吉松家が持っていた「行政官(民部)」としての能力を、新しい支配体制の下で「村役人」として活かす道だった。
こうして吉松家は、二つの機能に分裂した。
弟・種栄(宮野):「神」に仕え、祭祀と伝統を守る「神職」の吉松。
兄・種良と長男・種仲(田中):「土」に生き、村をまとめ、年貢や治水を管理する「行政」の吉松。
「神職」と「行政」。
この二つを分けることで、私たちは新しい時代の監視の目をかいくぐり、しぶとく生き残る道を選んだのだ。
しかし、運命は過酷だった。
期待の行政の跡継ぎであった種仲が、若くして亡くなってしまったのである。
残されたのは、まだ幼い孫の種為(たねい)たち。種仲の妻は別の家の男性と再婚して家を出てしまったため、私は田中村で孫たちを養育することになった。
「私が守らねばならぬ。この子たちと、吉松の記憶を」
恵蘇八幡宮は秋月家が去ってから、信じられないようなスピードで荒廃が進んでいた。
私は晩年、失われゆく恵蘇八幡宮の祭儀の作法や式次第を、こと細かに書き残し、後継者たちに伝授することに心血を注いだ。
種仲の死後、彼が管理していた3つの村は分割された。
宮野と鳥集院は弟の種嗣(たねつぐ)が、そして田中村は孫の種為が継ぐことになった。
その後、宮野と鳥集院の保正職は、 種嗣の跡を継いだ息子の吉松種友(たねとも)が担ったが、種友は他人からの讒言(ざんげん/告げ口、中傷)を受け、筑後国へ退去せざるを得なくなり、その結果、宮野・鳥集院の保正職は吉松家から離れた。
一方でなんとか田中村の保正職は以後も長く残り、江戸時代を通じて田中村の指導者として生き抜くことになるのである。
4. 吉松家と古賀家の盟約
【主人公:第32代 吉松種良(よしまつ たねよし)】
「弟の種栄には神職を、私(種良)は村をまとめる庄屋(保正)を。吉松家を二つに分けることで、私たちは生き残りを図った。
だが、まだ足りない。
新しい支配者・小早川隆景の役人たちと対等に渡り合い、この地域の要求を通すには、21歳の私ではあまりに若く、経験が不足していた。
それに、旧領主・秋月家の色があまりに濃い私が表に出すぎれば、新領主に警戒される恐れもある。
そこで私は、ある人物の元へ走った。
かつて父・種家が受け入れた、あの『少弐の末裔』の元へ」
私は須川(すがわ)の古賀新左衛門(こが しんざえもん*殿を訪ねた。
彼はかつての名門・少弐家の血を引き、戦国の世を生き抜いてきた歴戦の元武士だ。この時すでに64歳。知識、経験、度胸、どれをとっても私より遥かに優れている。
「新左衛門殿、お願いがございます」
私は頭を下げ、単刀直入に切り出した。
「吉松家は、この朝倉の行政の表舞台から一歩引きます。代わりに、貴殿に『触口(ふれくち)』の役目をお願いしたいのです」
「触口」とは、領主からの命令を村々に伝え、逆に村々の要望を領主へ取り次ぐ、いわば「行政の窓口(スポークスマン)」だ。
この役目は、単なる伝言係ではない。時には理不尽な命令に対し、村を守るために役人と交渉しなければならない、極めて政治的なポジションである。
新左衛門殿は、私の真意をすぐに察してくれた。
「種良殿、それはつまり……吉松家が守ってきた『民部』としての行政権限の多くを、私に預けるということですか?」
「はい。今の私たちが表に立ちすぎれば、吉松家は潰されます。ですが、貴殿ならば……少弐の誇りと知恵を持つ貴殿ならば、小早川の役人とも渡り合えるはずです」
これは、吉松家が代々保持してきた権力の一部を、他家へ譲り渡すという大きな決断だった。
しかし、新左衛門殿は深く頷き、力強く答えてくれた。
「承知いたしました。かつて流浪の身であった我らを受け入れてくださったご恩、今こそお返しいたしましょう。この老骨、吉松殿と朝倉のために使いましょう」
こうして、吉松家と古賀家の間に、主従を超えた「実務上の盟約」が結ばれた。
吉松家:田中村の庄屋として、田中村内部の治水や農業、もめ事の処理といった「内政」を固める。
古賀家:触口(後に大庄屋・惣庄屋)として、領主・小早川家(後の黒田家)との「外交・交渉」を一手に引き受ける。
「内」の吉松、「外」の古賀。
この二つの家が車の両輪のように連携したことで、朝倉の村々は激動の時代を乗り越え、江戸時代に入ってからも安定した自治を維持することができたのである。
【コラム】古賀家の恵比寿様と「平松」
吉松家と古賀家の間で、実務権限を委譲する「盟約」が結ばれた直後のことだ。
吉松種良(たねよし)は、古賀新左衛門に対し、ある提案を持ちかけた。
「新左衛門殿、貴殿が触口としてこの地を治める門出として、屋敷に恵比寿(えびす)様をお祀りしてはいかがか。五穀豊穣と一族の繁栄を祈りましょう」
当時、吉松家といえば、秋月家も深く信頼を置いていた「大宮司家」。
その当主が自ら祭祀を行ってくれるというのは、新参者である古賀家にとっては最大級の「お墨付き」を得ることを意味する。
種良は白装束に身を包み、厳粛に「魂入れ」の儀式を執り行った。
祀られたのは、素朴な石のご神体である。
種家(先代)が祝詞を上げ、新左衛門が玉串を捧げる。
その瞬間、この地に来てまだ30年ほどの「よそ者」であった古賀家と、900年の歴史を持つ吉松家との間に、主従を超えた「敬意の絆」が結ばれた。
そして、この恵比寿様の傍らに、一本の若き松が植えられた。
「この松が大きく育つ頃には、この地も安泰となっているでしょう」
数年後、その松は不思議な成長を遂げた。
上へ高く伸びるのではなく、枝が四方へ「平ら」に広がり、まるでその下で暮らす人々を優しく覆い守るかのような形となったのだ。
人々はこの松を、親しみを込めて「平松(ひらまつ)」と呼んだ。
この呼び名こそが、後に日田街道の宿場町として栄える「比良松(ひらまつ)」という地名の由来である。
明治時代に入り、火災によってその松は失われてしまったが、比良松地域には今も「恵比寿神社」が鎮座している。
かつて若き神官と老練な武士が交わした約束の証は、地名となり、神様となって、今も朝倉の往来を見守っているのである。
5. 星野家との出会い
【主人公:星野胤吉(ほしの たねよし)】
「私は星野胤吉。筑後川の南、星野村をルーツに持ち、代々この朝倉の南側を守ってきた『星野家』の当主だ。
だが今の私に城はない。家臣もいない。あるのは、父から受け継いだ『星野』という誇り高い名と、泥にまみれてでも生き抜くという覚悟だけだ。
時は天正15年(1587年)の大晦日。
父・星野吉実(よしざね)が、北の秋月家・吉松家との同盟の義を貫いて高鳥居城で壮絶な討ち死にを遂げてから、一年余りが過ぎていた。
父を失った私は、一族を連れて母の実家である肥後(熊本)へ逃げ延びた。
だが、そこにも秀吉の九州平定の影響は及び、もはや安住の地ではなかった。
『逃げるのはもう終わりだ。祖先の魂が眠るあの場所へ帰ろう』
私は決意し、かつて先祖・星野胤実(たねざね)が創建したと伝わる高木神社のある、朝倉・須川(すかわ)の地を目指して山を越えた。
猛吹雪の中、私たちは疲労困憊で須川の妙見原へと辿り着いた。
意識が遠のく中、私の脳裏にある男の顔が浮かんだ。
『甚助(じんすけ)……。あの男ならば』
甚助は、高木神社の近くに住む山守り(やまもり)だ。
かつて父が懇意にしており、私も幼い頃に山を案内してもらった記憶があった。
必死の思いで小屋を探し当て、扉を叩く。
中から警戒した様子の男が顔を出した。
『甚助、私だ。星野吉実が子、胤吉だ』
『……若様!? まさか、若様でございますか!』
甚助は驚愕し、涙を流しながら私たちを招き入れ、温かい粥と暖を提供してくれた。
私は言った。
『我らは武士を捨て、この地で土と共に生きる覚悟だ。だが、よそ者の我らが勝手に住み着くわけにはいかぬ』
甚助は深く頷き、こう言った。
『承知いたしました。この地の祭祀と管理を一手に担う、吉松様というお方がおられます。年が明けたら私が案内いたしましょう。吉松様ならば、きっと若様たちの力になってくださるはずです』
年が明け、数日が経った天正16年(1588年)の正月。
甚助の案内で、私は上須川にある高木神社の社殿を目指した。雪解けの冷気を含んだ風が、火照った頬に心地よい。
『ここが、ご先祖様が建てた神社か……』
数百年もの間、この地を見守り続けてきた古社を前に、私は自然と頭を垂れた。
社殿の前で待っていたのは、二人の神職姿の男たちであった。
この地の実質的な管理者である吉松種良(たねよし)殿と、その弟・種栄(たねひで)殿である。彼らは甚助から話を聞き、朝早くから私の到着を待っていてくれたのだ。
私は雪の上に膝をつき、吉松殿に平伏した。
「我らは星野吉実が子、胤吉。父は義のために散りましたが、我らは生き恥を晒してでも家名を残したく、舞い戻って参りました」
兄の吉松種良殿は、私の目をじっと見つめ、深く頷いた。
「星野殿、頭を上げられよ。貴殿の父上の最期、実に見事であったと聞いている。……我ら吉松もまた、主君・秋月様を失い、同じ痛みを抱えているのだ」
吉松家もまた、秀吉によって領地と権威を奪われ、苦境の只中にあった。
だからこそ、敗者となった私たちの痛みが誰よりも分かったのだろう。
「ようこそ、帰ってこられた。我らは共に時代に翻弄された者同士。これからは手を携え、この地を守っていこう」
吉松殿は、私たちに須川の定住を許し、農民として生きる道を用意してくれた。
かつて武士として「南北の守り」を固めた両家は刀を置き、今度は農民として、この朝倉の地で共に生きていく「盟約」を、甚助が見守る静かな神社の境内で結んだのである。
その後、星野家は明治期に庄屋を務めるものが現れたり、朝倉で多くの優秀な人材を輩出します。
現在も星野胤吉が住み着いたと見られる上須川地区には多くの星野姓の方々が暮らしており、歴史の痕跡が感じられます。
【コラム】古代から江戸にかけての朝倉の支配の実態
ここまでの朝倉地域の土地支配には吉松家が深く関わってきたと考えられる、朝倉地域の土地支配の実態はあまり良く分かっておりませんが、ここで一度、この吉松家の歴史調査を行った上で、「こうだったのではないか」という推察を以下にまとめておきます。(ほとんど推察です)
年代 | 支配者(朝廷・幕府) | 支配者(実質・軍事力) | 支配者(名目・徴税等) | 備考 |
|---|---|---|---|---|
645〜743 | 大領(朝廷役人) | 大領(朝廷役人) | 各農民 | 班田収授の法のもと、朝廷が土地を管理。 |
743〜941 | 大領(朝廷役人) | 大領(朝廷役人) | 各農民 | 墾田永年私財法のもと、土地の塊根と私有化が許されるものの、荘園と呼ばれるほど大規模領主はいなかったと考えられる。 |
941〜1185 | 大蔵氏 | 大蔵氏 | 社家・吉松家 | 藤原純友の乱を鎮圧した武功で大蔵氏が筑前一帯の支配者となり、七百町を吉松家へ免上地として寄進 |
1185〜1282 | 守護・地頭 | 土着の武家 | 不明 | 源平合戦で平家方についた大蔵氏が没落し、鎌倉幕府の支配下へ。しかし、実質的な支配者は土地に精通した武家や豪族が担ったと考えられる。 |
1282〜1333頃 | 鎮西奉行・少弐氏 | 土着の武家 | 不明 | 吉松家であった可能性もある。幕府直属の九州管理者として少弐家が台頭 |
1333頃〜1587頃 | 九州探題・一式氏、今川氏、渋川市など | 土着の武家・秋月氏 | 不明 | 秋月家の台頭により、朝倉地域は実質的に秋月家の支配下になったと見られる。 |
1587〜1601 | 小早川氏 | 小早川氏 | 各村の保正 | 秀吉の九州平定により、小早川氏が支配 |
1601〜 | 黒田氏 | 黒田氏 | 各村の庄屋 | 江戸幕府の誕生により黒田氏が支配。 |
吉松家全史物語について
吉松家全史物語の注意事項
第一章:古代・創世記
神話と歴史の交差点
第二章:平安・鎌倉期
祈りと剣の契約
第三章:室町・戦国期
秋月家との血脈と繁栄
第四章:安土桃山期
吉松家最大の危機と決断
第五章:江戸期
現代へつなぐバトン
第六章:近現代
激動の近代と離散、そして再会
あとがき
未来へ続く「吉」を待つ心
【番外編】吉松家の調査を終えて
調査のきっかけなど
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