第六章:近現代
1. 近代化と一族の離散
さて、時代は明治維新へと進みます。
チョンマゲが切り落とされ、刀が廃止され、身分制度が崩れた激動の時代。
それは、吉松家にとっても『職業選択の自由』が得られた、新しい時代の幕開けでした。
かつて堀川の難工事や水車発明に尽力した『田中吉松家』。
彼らは田中村から姿を消しますが、それは決して途絶えたからではありません。
新しい時代を生き抜くために、より広い世界へと旅立ったのです。
彼らが選んだ新しい武器、それは『医術』でした。
まずは、三連水車を考案した発明家・吉松種煕(たねひろ)の家系から。
種煕の晩年、あるいは子どもたちの代に、一家は田中村を離れ、九州最大の商都・博多へ移り住みます。
そこで活躍したのが、先に「系図を残した」と紹介した吉松直江や、その兄の家系でした。
とりわけ41代・吉松春渚(しゅんしょ)は、叔母であり当時としては珍しい女医として名声を博していた吉松直江から医術を学び、育てられ、博多で著名な産婦人科医となります。
しかも彼は多芸多才な文化人でもあり、博多の聖福寺の名僧、禅僧の仙厓(せんがい)和尚とも親交があったと伝わっています。
「狐が人間に化けて、難産の助けを乞いに来た」という噂が立つほど、春渚の“名医ぶり”は評判だったと、後世に語られるほどです。
その後、42代・知我志(ちかし)は大阪へ進出し、この「博多吉松家」は都市部で医家として繁栄していきました。
一方で、田中村で代々庄屋を務めてきた本家筋も、大きな決断を下します。
41代・吉松勘助(かんすけ)の代に、住み慣れた田中村を離れ、東へ約8キロの杷木(はき)の池田へ移住したのです。彼らは以後、「杷木吉松家」と呼ばれ、ここでも医業の道を選びました。
42代・景山(かげやま):漢方医として
43代・知太郎(ともたろう):蘭学(西洋医学)を学び
44代・重實(しげざね):長崎で最新の近代医学を修める
そして彼らは、現在の福岡県朝倉市(旧・朝倉郡杷木町)大字池田に、「杏仁堂(きょうにんどう)」という医院を構え、親子三代にわたって地域の命を守り続けました。
こうして、かつて堀川用水の工事に命を懸けた父・種重や、水車を作った息子・種煕を生んだ「田中吉松家」は、拠点を「博多」と「杷木」に分け、そこで「医師」という新しい役割を得て再出発したのです。
田中村から「吉松」の名は消えました。けれど血脈は途絶えず、新しい時代の中で力強く脈打っていました。
ただし。
彼らが去った後の故郷・田中村に残ったのは、先祖たちが眠る古い墓地だけでした。
そして昭和、その墓地を、容赦のない悲劇が襲います。
2. 筑後川の大反乱と墓地損壊
かつて江戸時代。
吉松種重が命を削って掘り進め、種煕が水車で汲み上げた水を供給していた筑後川は、乾いた朝倉の大地を潤す恵みの母でした。
けれど、ひとたび機嫌を損ねれば、すべてを呑み込む荒ぶる龍へと変わる。
人々は恐れを込めて、この川を「筑紫次郎(つくしじろう)」と呼びました。
(坂東太郎=利根川、四国三郎=吉野川と並ぶ、日本三大暴れ川の一つです。)
吉松家の人々が博多や杷木へ去ってから、約100年。
田中村(現・朝倉町田中)に残された吉松家の古い墓地は、かつて屋敷があった場所として、地元の人々から「庄屋ん前(しょうやんまえ)」と呼ばれ、ひっそりと守られていました。
しかし昭和の半ば、その静寂を引き裂く未曾有の災厄が訪れます。
昭和28年(1953年)6月下旬。
梅雨末期の豪雨が、何日も降り続きました。九州北部を襲ったこの記録的な大雨は、後に「昭和28年西日本大水害」として歴史に刻まれます。
雨は筑後川の水位を極限まで押し上げ、ついに恐れていた瞬間が来てしまいます。
轟音と共に、田中地区の堤防が決壊。
濁流は茶色い壁となって村へなだれ込み、家々は流され、田畑は泥の海と化しました。
そしてその激流は、竹藪の陰で誰にも顧みられず佇んでいた「田中吉松家の墓地」をも、無慈悲に直撃したのです。
一夜明け、水が引いた後に残ったのは、一面の泥と瓦礫(がれき)だけでした。
堀川の難工事に挑み、村のために尽くした第38代・種重や、最後の庄屋・種方たちが眠っていた墓地は、見るも無残な姿に変わり果てます。
墓石の多くは、現代のような整った形ではなく、江戸時代の素朴な自然石でした。
それらは激流になぎ倒され、あるいは流され、厚い泥の下へ埋もれてしまったのです。
「庄屋様の墓が……」
この時、墓地を管理していたのは近くに住む江藤家の方々でしたが、彼らも生活再建に追われる中で、どうすることもできませんでした。
皮肉な運命です。
かつて吉松家の先祖たちは、この川の水を治めるために命を懸けました。
それなのに数百年後、その川の氾濫によって、彼らが生きた証である「墓」が破壊されてしまった。
吉松家の人々はすでにこの地を離れ、誰もその惨状を知る由もありません。
物理的な痕跡が消えれば、記憶からも歴史は消えていく。
田中吉松家の歴史は、この泥の中で永遠の眠りにつこうとしていました。
けれど歴史の糸は、まだ切れていませんでした。
壊滅した墓地を目指して、一人の子孫が歩き出すのは、ここからさらに2年後のことです。
3. 執念の再会 ——吉松義典の調査
【主人公:吉松義典(よしのり)/杷木吉松家・45代】
昭和28年の大水害から2年。
昭和30年(1955年)8月のお盆、杷木の実家に帰省していた吉松義典は、親戚たちと輪になって話していました。
話題は、なぜか暗い方へ流れていく。
早世、事故、病――一族に続く不幸のこと。
誰かが冗談めかして言い、誰かが黙り、また別の誰かがため息をつく。
そのとき義典の胸の奥に、ひとつの考えが浮かびます。
「……これは、長い間、ご先祖様の墓を放ったらかしにしているからではないか……」
理屈ではなく、感覚でした。
根拠はない。けれど、無視できない。
言葉にしてしまえば迷信めいているのに、なぜか、妙に手応えがある。
義典は、ふと立ち上がり、実家の仏壇の引き出しを開けました。
まるで、そこに何かがあると知っているかのように。
すると、引き出しの奥から出てきたのは、くたびれた紙束。
そこに残されていたのは、27年前に亡くなった叔父・種商(たねあき)の古い調査メモでした。
表紙には、はっきりと書かれている。
「昭和3年(1928年)調査」
メモには、かつて吉松家が住んでいたという「田中村」の墓地について記されていました。
ただし、肝心のことが抜けている。
正確な場所が、どこにも書かれていないのです。
そして、義典は思い出します。
叔父は、志半ばで、33歳という若さで急逝した。
調査は、途中で止まった。だからこのメモも、途中で途切れている。
義典は紙束を握りしめ、心の中でつぶやきました。
「今、このメモが出てきたということは……」
「先祖が、『早く来い』と呼んでいるのかもしれない」
言い切ってしまえば不思議な話です。
けれど義典には、それが「気のせい」には思えませんでした。
翌日。
真夏の炎天下の中、義典はメモを携え、外へ飛び出します。
田中村を一通り散策すると、2年前の大水害の爪痕は、まだ生々しく残っていました。
川岸は大小の石で埋まり、自転車を押して歩くことさえ困難。
足を取られ、息が上がり、喉が焼ける。
そんな中、手がかりを探すために向かったのは、上寺(かみでら)にある教念寺(きょうねんじ)でした。
教念寺に着くと、住職は義典を迎え、ひと言、こう言いました。
「よく来なさいました」
そして見せてくれたのは、水害の泥水から奇跡的に守られた、元禄時代(1688年〜)から続く「過去帳」でした。
義典は、震える手でページをめくります。
息を殺し、目を凝らし、文字を追う。
すると、ある記述が、目に飛び込んできました。
「田中邑(むら)庄屋 吉松某」
その瞬間、背筋がぞくりとしました。
系図にある名前。過去帳にある法名。没年。
一つ、また一つと照らし合わせるたびに、点が線になっていく。
「……間違いない」
義典は小さく、しかし確かな声で言いました。
「吉松家は、確かにここ田中村で、代々庄屋を務めていたんだ!」
系図という「紙の上の記録」が、「歴史の事実」として証明された瞬間でした。
教念寺を後にした義典は、その足で田中地区(旧・田中村)へ向かいました。
過去帳で裏付けは取れた。
吉松家がいたことは、確かだ。
しかし――肝心の墓の場所が分からない。
義典は村の人々に聞き込みを始めます。
「吉松という古い庄屋の墓をご存知ないでしょうか」
すると、ついに有力な情報が得られました。
「それなら、江藤さんが管理しているはずだ」
義典は教えられた家を訪ねます。
江藤正吉(えとう まさきち)氏。
突然の訪問にもかかわらず、60歳を過ぎた江藤氏は義典を招き入れ、話を聞くと懐かしそうに目を細めました。
「ああ、吉松さんですか。話には聞いていますよ」
江藤氏は、ゆっくりと言葉を選びながら続けます。
「私の祖父たちから、『あそこは昔、杷木で医者をしていた吉松さんの先祖の墓だ』と申し伝えられて、ずっと管理してきました」
義典は、胸の奥が熱くなるのを感じました。
誰も知らないと思っていた。
誰も覚えていないと思っていた。
けれど、ちゃんと残っていた。
江藤家の記憶の中に、吉松家の名は生きていたのです。
そして江藤氏は、さらに言いました。
「そういえば、確か……25年ほど前にも、どなたか調査に来られましたが、それっきりでしたなぁ」
義典は、ハッとしました。25年前。調査。それっきり。
(叔父・種商だ!)
叔父の遺志は、途絶えていたのではない。
ただ、届かなかっただけだった。
届かなかった遺志が、いま、義典の手の中で息を吹き返している。
そうしているうちに江藤氏はすぐに立ち上がり、案内してくれました。
「墓なら、すぐ裏にありますよ。――こっちです」
竹藪の裏手へ回った瞬間、義典は言葉を失います。
そこは地元の人々が、昔から「庄屋ん前(しょうやんまえ)」と呼んできた場所。
しかし墓地は、2年前の筑後川氾濫によって壊滅状態でした。
墓石のほとんどはなぎ倒され、厚い泥に覆われ、瓦礫の中に埋もれている。
自然石の墓が多かったため、形が整っていない。
だからこそ、どれが誰の墓か、見分けもつきにくい。
「……こんなことに……」
義典は、ただ呆然と立ち尽くしました。
けれど、ここで帰るわけにはいかない。
むしろ、ここまで来たからこそ、始まる。
義典は袖をまくり、泥の中へ踏み込みました。
「ああ……こんなお姿になって……!」
義典は倒れた墓石に駆け寄り、必死に泥を払います。
手で払うだけでは落ちない。
タワシでこすり、苔を削り、泥をはがす。
すると苔と泥の下から、文字が浮かび上がってきました。
「釈浄玄(しゃくじょうげん)」
義典は息を呑みます。
それは、若くして堀川工事の過労で亡くなった、
第38代・吉松種重の法名でした。
さらに、別の墓石も見つかります。
田中村最後の庄屋であった、40代・種方(たねかた)。
義典はその場に膝をつき、泥だらけの墓石に向かって合掌しました。
声は震え、言葉は途切れそうになりながら、それでも口にします。
「申し訳ありませんでした……」
「長い間、子孫たちから放ったらかしにされて……」
「私は子孫の義典です」
そして、南無阿弥陀仏の読経が、静寂の中に流れました。
それは、明治に一族がこの地を去ってから、約90年ぶりに子孫が捧げた祈りでした。
エピローグ:ほどけかけた糸を、結び直す
昭和28年の大水害は、墓地を物理的に破壊し、歴史を消し去ろうとしました。
しかし皮肉にも、その破壊された姿が、義典の「執念」を呼び起こしたのです。
泥の中でほどけかけた吉松家の「過去」と「現在」は、この瞬間、奇跡的に結び直されました。
もし教念寺の過去帳が残っていなければ。
もし江藤家が管理を続けていなければ。
もし叔父・種商のメモが引き出しの奥に眠ったままだったなら。
吉松家の歴史は、永遠に「系図の中だけの物語」で終わっていたかもしれません。
けれど、終わらなかった。
誰かが“呼ばれ”、誰かが“歩き”、誰かが“掘り起こした”からです。
義典の手は泥だらけでした。
しかし、その泥は、過去を汚した泥ではありません。
過去を“掴み直した”泥でした。
そしてこの日から、吉松家の物語は再び、現実の地面の上で続き始めたのです。
4. 平成の系図解読プロジェクト
【主人公:吉松道哉(みちや・杷木家45代)と 吉松隆太郎(りゅうたろう・博多家44代)】
昭和、義典が泥の中から墓石を見つけ出し、一族の実在は証明された。
しかし肝心の「一族の物語(系図)」の全貌は、まだ深い霧の中でした。
時は流れて平成。舞台は九州を離れ、大阪と栃木へ移ります。
大阪には、吉松隆太郎がいました。博多吉松家の末裔です。
手元には、母・千代から託された一巻の巻物。
江戸時代末期、吉松直江が書き残した『直江系図』です。
隆太郎は母との「いつか先祖の地を訪ねて」という約束を果たすため、この巻物を50年間も、銀行の貸金庫で大切に保管し続けていました。
一方、栃木県矢板市には、吉松道哉がいました。杷木吉松家の末裔で、田中村の墓石の調査を行った義典の弟です。
道哉の手元には、亡き兄たち(信行・義典)が執念で集めた膨大な調査資料が残されていました。
大阪の隆太郎は「巻物」を持つ。栃木の道哉は「知識」を持つ。
二人は互いを知らぬまま、それぞれの地で定年後の日々を送っていたのです。
運命の歯車を回したのは、両家と親戚関係にある福岡の平川亮一氏でした。
平成9年(1997年)、平川氏の仲介で二人は電話で繋がります。
そして翌年、平成10年(1998年)4月。桜が満開の栃木県矢板市で、二人は初めて対面を果たしました。
「兄たちが調べた資料を、無駄にしたくない」道哉。
「母から託された宿題の答えを、生きているうちに出したい」隆太郎。
願いは完全に一致します。
「よし、やりましょう。二人で協力して、この難解な漢文の系図を現代語に訳し、一冊の本にまとめ上げるのです」
大阪と栃木。西と東。
二人の老紳士による、最初で最後の共同プロジェクトが始まりました。
平成の世とはいえ、二人は自らを「旧式人」と呼びました。パソコンもインターネットも、ファックスさえ使わない。
隆太郎が原稿を書き、道哉へ郵送し、電話で激論を交わす。そんなアナログな手法で、1300年にわたる歴史のパズルを一つずつ解いていきます。
漢文の解読には、知人の松嶋育男氏の協力も仰ぎ、直江が残した文字の裏にある意味を読み解いていきました。
そして平成11年(1999年)5月。本の完成を前に、二人は先祖の地・朝倉へ旅立ちます。
義典が見つけた「庄屋ん前」の墓地跡。宮野に残る吉松家の墓。恵蘇八幡宮。
「ここを、ご先祖様たちが歩いたのですね……」
初代・定家が祈った神社で、二人は時を超えた風を感じていました。
平成12年(2000年)。ついに一冊の本が完成します。
タイトルは『吉松家系図解読』。限定200部、非売品。灰色の表紙の質素な本。けれど中身は、きわめて濃い。
古代の神職から始まり、戦国の動乱、江戸の水との戦い、そして明治以降の医師としての歩みまで、吉松家が生き抜いてきた1339年間の「命のリレー」が、鮮明な現代語で綴られていました。
江戸時代、散逸しかけた歴史を種政が書き写し、直江が繋ぎ、昭和に義典が墓を掘り起こし、平成に隆太郎と道哉が物語として完成させた。
この本は単なる家系図の解説書ではありません。
「私たちは、どこから来て、どこへ行くのか」
数多の先人たちが未来の子孫へ宛てた、時を超えた長い長い手紙なのです。
5. 宮野の地を守り抜く
【主人公:吉松政幸(まさゆき)】
大阪と栃木で『吉松家系図解読』という壮大なプロジェクトが進んでいた頃。
吉松家のルーツである朝倉・宮野の地にも、静かに、しかし熱く歴史を見つめる一人の男がいました。
名は吉松政幸。宮野吉松家の12代・倉吉(くらきち)の孫にあたる人物です。
学者でも、著名な研究者でもない。
ただ、彼には誰にも負けない強みがありました。「歴史の現場で育った」ことです。
家の目の前には、江戸時代から続く宮野吉松家の古い墓石群。
苔むした石、風化して読みにくくなった文字。
それらは毎日、無言で政幸に語りかけてくる。
「ここに、俺たちの先祖が確かに生きていたんだ」
政幸が生まれ育った家には、一族の転換点を象徴する、重要な「石」が鎮座していました。
それが、屋敷の庭にある「荒神(こうじん)様」の石祠(せきし)です。
この石祠は、江戸時代中期の1767年(明和4年)、第39代・吉松種徳(たねのり)が建立したもの。
種徳は時代の変化を悟り、「これからは神職ではなく、農民としてこの土地に根を張って生きていく」という悲壮な決意を込め、家と土地の守り神として荒神様を祀ったのでした。
政幸は、この荒神様がある家で暮らし、毎日その姿を目にしながら育ちます。
苔むした石祠は単なる庭石ではない。先祖が命懸けで守ろうとした「土地の記憶」そのものだったのです。
政幸は暇を見つけては墓地へ入り、タワシで墓石の泥を落とし、石に刻まれた文字を丹念に読み解きます。
さらに近所の古老たちから聞き集めた伝承や噂をノートに書き留めました。
この記録は後に「政幸資料」と呼ばれ、地元史を裏付ける貴重な資料となっていきます。
時は流れ、平成12年(2000年)。
政幸は、先祖代々守り抜いてきたその土地を、ある家族に譲り渡しました。
その家族の中に、当時5歳の少年がいました。名は坂田拓也(さかたたくや)。宮野吉松家の第44代・弥一郎の曾孫にあたる少年です。
※ここで登場する坂田拓也は、この小説の著者本人です。
拓也の両親が政幸から土地を譲り受けたことで、拓也は政幸が暮らしたのと同じ場所に家を建て、そこで育つことになります。
庭の片隅には、あの荒神様の石祠が静かに佇んでいました。
幼い拓也にとって、それは「昔からある古い石」に過ぎなかったかもしれない。
けれど彼は政幸と同じ風景を見、同じ風を感じ、同じ「守り神」のそばで成長していったのです。
政幸が墓石の文字を読み解いたように、成長した拓也もまた、庭の石祠の文字を見つめることになります。
風化して読みづらくなった「神主 吉松定恒(さだつね)」(種徳の改名後の名)という文字。
それは、250年前の先祖が込めた「この地で生き抜く」という、強烈なメッセージでした。
昭和に資料を残した政幸と、平成・令和にそれを受け取り、『吉松家全史』を編纂する拓也。
二人は「荒神様のある土地」という同じ場所を通じて、時を越えて深く結びついていきます。
吉松家の歴史は古文書の中だけでなく、彼らが踏みしめるこの「土」と、庭に鎮座する「石」の中にこそ、生々しく息づいているのでした。
6. 1400年のバトン ——坂田拓也の調査
【主人公:坂田拓也(さかたたくや)/宮野吉松家・44代弥一郎の曾孫(=本作の著者)】
時は流れ、令和の世。
かつて吉松政幸が守り抜いた宮野の土地を受け継いだ少年、坂田拓也は大人になっていました。
彼が暮らす家の庭には、江戸時代に第39代・吉松種徳(定恒)が「これからは農民として生きる」という不退転の決意を込めて建立した、あの荒神様の石祠が、今も静かに佇んでいます。
ある日、拓也は祠をふと見つめ、ハッとしました。
側面に刻まれた 「明和四年……神主 吉松定恒」 という文字が、風化して読みづらくなっていたのです。
「石に刻まれた文字でさえ、時と共に消えていく。ましてや、人々の記憶や紙の記録など、放っておけばすぐに風化してしまう」
種政が虫食いの系図を書き写し、直江が清書し、隆太郎と道哉が解読し、政幸が墓石を磨いた。
先人たちが必死に繋いできた「1400年のバトン」が、いま確かに自分の手の中にある――拓也はそう強く意識します。
「僕の役目は、このバトンを次の世代へ、より鮮明な形で渡すことだ」
拓也は動き出しました。
彼が手にした武器は、先祖たちが持っていなかったデジタル技術です。
彼は、隆太郎たちが残した『吉松家系図解読』、政幸のノート、直江が残した古系図をスキャンし、データ化していきます。
さらに、インターネット上の膨大な歴史資料やデータベースを駆使し、系図の記述と史実を照らし合わせる検証作業を行いました。
すると、これまで「点」でしかなかった出来事が、「線」として繋がり始めます。
戦国時代の秋月家との共闘、豊臣秀吉による没落、江戸時代の古賀家との協力関係……。
散らばっていたピースが、一つの壮大なドラマとして立ち上がってきたのです。
また、拓也は、単なるデータ保存だけでは満足しませんでした。
「名前の羅列だけでは、誰も読んでくれない。先祖たちがどんな思いで生きたのか、その『物語』を伝えなければ」
拓也は膨大な資料をもとに、ひとつの資料を編纂します。
タイトルは 『吉松家全史』。
そこには、初代・定家が異国の脅威に震えながら祈った姿、種良が家を二つに割って生き残りを図った苦悩、種徳が荒神様に込めた願いが、生きた物語として綴られていました。
直江が筆で系図を書いたように、拓也はキーボードで新たな歴史を紡いだのです。
それは過去を懐かしむためだけの記録ではありません。
「私たちは一人ではない。
1400年もの間、数え切れない先人たちがバトンを繋いでくれたおかげで、今ここにいる」
その事実を未来へ手渡すための、令和の時代の「系図書き」でした。
古代の「定家」、江戸の「種政」と「直江」、昭和・平成の「隆太郎」「道哉」「政幸」。
そして令和の「拓也」。
住む場所も、時代も違う。
それでも彼らを繋いでいるのは、「吉松」という名の記憶と、「この物語を絶やしてはならない」という共通の想いでした。
庭の荒神様は、今日も静かに佇んでいます。
石の文字はいずれ消えるかもしれない。けれど、その想いはデジタルという新しい器(うつわ)を得て、次の1000年へと受け継がれていく。
斉明天皇が初代・定家に語ったという「松の如くあれ」という言葉のように――
吉松家の物語は、形を変えながらも、千年の翠(みどり)を保ち続けるでしょう。
吉松家全史物語について
吉松家全史物語の注意事項
第一章:古代・創世記
神話と歴史の交差点
第二章:平安・鎌倉期
祈りと剣の契約
第三章:室町・戦国期
秋月家との血脈と繁栄
第四章:安土桃山期
吉松家最大の危機と決断
第五章:江戸期
現代へつなぐバトン
第六章:近現代
激動の近代と離散、そして再会
あとがき
未来へ続く「吉」を待つ心
【番外編】吉松家の調査を終えて
調査のきっかけなど
トップページへ戻る


