第一章:古代・創世記
土地の記憶
私が立っているこの福岡県朝倉の地は、吉松家が生まれるはるか以前から、歴史の大きな節目において重要な役割を果たしてきた。 足元の土を踏みしめる。湿り気を帯びた黒い土の匂いが鼻孔をくすぐる。吉松家に伝わる古びた系図によれば、我が吉松家の初代・定家が歴史の表舞台に登場するのは西暦661年のことだ。しかし、この土地が湛えている記憶は、それよりもさらに深く、数千年にわたる古代の歴史の闇へと根を伸ばしている。
なぜ、私たちの祖先はこの地を拠点としたのか。そして、なぜ当時の朝廷は、都から遠く離れたこの山里に『仮の都』を置くという異例の決断を下したのか。
その答えを探るため、私は時間を巻き戻す。吉松家がまだ「吉松」と名乗る以前、神話と歴史が混じり合う古代朝倉の風景の中へと。
1. 古代朝倉の夜明け
足元の土を掘り返せば、そこからは縄文の土器片が現れ、弥生の生活跡が顔を覗かせる。 朝倉地域に人々が住み始めたのは古く、旧石器時代の終わりにはすでに人の営みがあった。本格的な定住が始まった縄文時代晩期、この地の人口は爆発的に増加していたことが、無数に見つかる遺跡の数から分かっている。
想像してほしい。鬱蒼とした森が開かれ、煮炊きする煙が谷間にたなびく様を。 驚くべきことに、この頃の遺跡からは遠隔地から持ち込まれたと思われる土器や、朝鮮半島との交流を示す「支石墓(しせきぼ)」も見つかっている。大昔の朝倉は、山に囲まれた閉ざされた隠れ里などではない。海外ともつながる「開かれた土地」として、異国の風が吹き抜けていたのだ。
やがて時代は弥生へと移り変わり、大陸から稲作が伝わると、風景は劇的な一変を遂げる。平野には黄金色の稲穂が波打ち、その富の蓄積は、必然として「持てる者」と「持たざる者」の争いを生んだ。 この時期の緊張感を今に伝えるのが、「平塚川添(ひらつかかわぞえ)遺跡」である。集落の周りには深く鋭い堀が巡らされ、「環濠集落」として村全体が要塞化していた。これほど厳重な守りを固めねばならなかった事実こそ、ここが重要な政治的・軍事的な拠点であった証拠に他ならない。
ここで一つの歴史ロマンが、霧の向こうから顔を出す。「邪馬台国」である。 女王・卑弥呼が治める幻の王国。その所在地を巡る論争はいまだ決着を見ていないが、この朝倉の地こそが邪馬台国だったのではないかという説が、一部で根強く囁かれている。朝倉の中心部である「山田」という地名の響き、そして出土する鏡や鉄剣の輝きが、かつてここに強大な権力を持った「クニ」があったことを無言のうちに物語っている。
では、なぜ古代の権力者たちは、この朝倉を選んだのか? その答えは、眼下を流れる大河・筑後川にある。九州最大の一級河川である筑後川を使えば、有明海を通じて内陸深くまで大量の物資や人を運ぶことができる。また、この場所は、朝鮮の方角から上陸した敵が侵攻しづらい場所でもあった。なぜなら、海に面した博多湾からは山一つ隔てており容易に攻め込まれづらいことをはじめ、西部は山で囲われているため、後ろに回り込まれる可能性もほとんどないという「天然の要害」でもあった。
「海からの交通の便が良く、かつ敵からは守りやすい」。 この絶妙な地政学的条件こそが古代の豪族たちを惹きつけ、巨大な集落を作らせた理由であろう。そしてこの土地の特性こそが、数百年後、斉明天皇がこの地に「朝倉宮」を置き、私たちの祖先・吉松定家が歴史の表舞台に登場する最大の舞台装置となるのである。
2. 大化の改新と国家の変貌
吉松家の始祖・定家が現れる少し前、日本の都では国の形を根本から作り変える巨大な政変が起きていた。「大化の改新」である。 西暦645年、中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我氏を滅ぼし、天皇を中心とした国づくりを始めた。その背景には、海の向こうの大陸で強大化する「唐」帝国の脅威があった。 バラバラの豪族支配では、あの巨大な帝国に対抗できない。彼らは危機感を募らせ、「公地公民」を掲げ、土地と人民を国家の直接管理下に置いた。
この改革により、地方の豪族たちは「国」や「郡」の役人として再編された。「自分のためではなく、国のために力を使え」。こうして日本は中央集権国家へと生まれ変わり始めた。 この新しいシステムがあったからこそ、数年後、斉明天皇が大軍を率いて朝倉へ行幸し、大規模な軍事作戦を展開することが物理的に可能になったのである。 そして、この国家的な動員の中で、祭祀という専門分野を担う役人として、私たちの祖先・吉松定家もまた、重要な使命を帯びて朝倉の地に立つことになった。
3. 斉明天皇の朝倉行幸と吉松家の起源
「日本を救う防波堤、百済(くだら)を復興せよ」。 西暦661年(白雉12年)、日本の歴史において前代未聞の大移動が始まった。斉明天皇率いる朝廷の全機能が、大和(奈良)から遠く離れた九州・筑紫へと移されたのである。目的はただ一つ。同盟国である百済を救い、唐・新羅の脅威から日本を守ること。
大船団で九州へ入った斉明天皇と中大兄皇子が目指した場所、それが朝倉であった。 筑後川という物流の大動脈を持ちながら、山に守られたこの地は、対外戦争の大本営を置くのに最適な場所だった。静寂に包まれていた朝倉の森に、斧の音が響き渡る。仮の皇居「朝倉橋広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」の造営が始まったのだ。
しかし、戦時下の急ごしらえの工事は、取り返しのつかない悲劇を招いた。 宮殿を建てるため、地元で信仰されていた神木を切り倒してしまったのである。 『日本書紀』は、その不吉な予兆をこう記している。「鬼火が現れた」「多くの近侍が病死した」。 まるで神々の怒りに触れたかのように、原因不明の疫病が陣営に蔓延した。そしてついには、総大将である斉明天皇ご自身までもが病に倒れられたのである。
絶望的な空気が漂う朝倉橋広庭宮。暗雲が垂れ込めるこの地で、一人の青年が歴史の表舞台に姿を現す。彼こそが、私たち吉松家の初代当主・定家(さだいえ)である。
定家は勅命を受けた。それは、国家存亡の危機において最も困難かつ重要な任務であった。「怒れる神を鎮め、異国の敵を調伏せよ」。 彼は宇佐から武運の神・応神天皇(八幡神)の御霊を勧請し、現在の恵蘇八幡宮(当時は朝倉天降八幡宮)において、必死の祭祀を始めた。これは単なる祭りではない。見えざる神の怒りと、海の向こうから迫る敵国。その双方に対する、国家の命運を懸けた祈りの戦いであった。
そして、運命の日が訪れる。 病床にある斉明天皇、あるいはその意志を継いだ中大兄皇子は、定家を枕元に呼び、一つの重大な言葉を授けた。
「待異国降伏之吉(異国降伏の吉を待て)」。
その声は、病に冒されながらも、凛とした響きを持っていたに違いない。 「定家よ、焦ってはならぬ。戦いは一日二日で終わるものではない。そなたはこの地で祈り続けよ。敵国が降伏したという『吉報(吉)』が届くその時を、あの松の木のように根を張り、静かに『待つ』のだ」。
庭にある松の木が、風に揺れていたかもしれない。いかなる嵐にも耐え、青々とした葉を茂らせる松。 この言葉は、若き定家の魂に深く刻まれた。「祈りとは、信じて待つこと」。 定家はこの誓いを忘れないよう、自らの姓を改める決意をした。「吉(よいしらせ)」を「待つ(まつ)」。この二つの文字を合わせ、彼は「吉松(よしまつ)」と名乗ったのである。
こうして西暦661年、吉松家は「朝倉の地で祈り続ける一族」として、その長い歴史の第一歩を踏み出した。
【コラム】吉松の祖・定家はどこから来たのか?古系図の謎
ここで、現代の私、坂田拓也の視点に戻り、手元にある一通の古系図に目を向けてみたい。
この系図は、現存する写本から判断すると、少なくとも江戸時代前期、1640年頃までには成立していたと考えられるものである。
その系図によれば、西暦661年、斉明天皇によって恵蘇八幡宮の宮司を命じられた人物として、「吉松定家」の名が記されている。
では、この定家とは、もともと朝倉の地に根付いていた人物だったのか。それとも、都あるいは別の地域から招かれ、この地に入った存在だったのか。
その正体を探る手がかりは、系図の冒頭に記された、次の一行に集約されている。
「卜部定澄五世的傳(卜部定澄、五世の嫡伝なり)」
本稿では、「五世的傳」という語を、「ある人物を起点として、五代にわたって正統に伝えられてきた伝承・系譜」という意味で捉える。この一文が示すのは、吉松家の歴史が、「卜部定澄(うらべ・さだずみ)という人物を起点とする物語」として認識されていた、という事実である。
では、この卜部定澄とは何者なのか。そして、吉松定家とは、どのように結びつくのか。
私はこの問題について、二つの仮説を立てて検討してみたい。
仮説その一:「6世紀の卜部定澄」説
第一の仮説は、6世紀中頃(およそ西暦550年頃)に「卜部定澄」と呼ばれる人物が実在し、その五世代後の子孫が、吉松定家であったとする説である。
この仮説の最大の魅力は、年代の整合性がきわめて自然に成立する点にある。
吉松定家が史料上に登場するのは661年であり、そこから五世代さかのぼると、一世代を25〜30年と見積もった場合、起点はおおよそ550年頃に位置づけられる。
また、奈良時代の筑前国戸籍を見ると、卜部氏の氏人が多数確認されており、これらの人々については、「古代宗像神社(宗像大社)に仕えた祭祀氏族の後裔である」とする説が存在する。
この点を踏まえれば、6世紀頃、宗像大社周辺で神事に関わる卜部氏の人物が存在していた可能性を想定すること自体は、必ずしも突飛な推論とは言えない。
また、別系統の卜部氏として、旧来は対馬などを拠点に卜占(とぼく)と言われる手法で今後の吉兆などを占っていた一族で、その一族からでた卜部氏の複数名が古代の朝廷で中臣氏に仕え、神祇官として朝廷の祭祀を司っていたという言説もある。中臣氏といえば中臣鎌足。つまり斉明天皇とともに朝倉にやってきた人物だ。
こうしてみると、「6世紀の卜部定澄(仮称)から五代目の子孫が、斉明天皇に仕え、朝倉へ入り、吉松定家となった」という系譜的ストーリーは、年代的・地理的観点から見て、非常に美しく成立する。
しかしながら、現時点において、6世紀に「卜部定澄」という同姓同名の人物が実在したことを直接示す一次史料は確認されていない。
そのため、この仮説は、史料的に実証されたものではなく、あくまで年代整合性と状況証拠に基づく「可能性のあるロマン」にとどまると言わざるを得ない。
仮説その二:「吉松家と卜部氏は同族」説
次は、視点を変えて考えてみたい。第二の仮説は、「吉松家と卜部氏は同族である」とする考え方である。
注目すべきは、系図における記述の仕方だ。
そこには、「卜部氏によれば〜」といった第三者的な引用表現は見られず、「卜部定澄五世的傳」と、あたかも自家の系譜を語るかのような書き方がなされている。
これは、吉松家(あるいはその前身)が、もともと卜部氏の一支流であり、朝倉の地に移住して「吉松」を名乗るようになった後も、本家筋である卜部氏(吉田家など)の伝承を、自らのルーツとして保持していた可能性を示唆している。
言い換えれば、「外部の卜部氏が吉松家を評価した」のではなく、「卜部氏の一支流が、同族である吉松家の歴史を語った」と解釈する方が自然なのである。
このように考えれば、吉松家の系図の冒頭に、卜部氏の名が置かれている理由も、無理なく説明できる。
「卜部定澄五世的傳」は、いつ書かれたのか
さらに重要なのは、「卜部定澄五世的傳」という文言が、いつの段階で書かれたのか、という点である。
現存する系図は、一度に書かれたものではなく、少なくとも三段階の成立過程を経ていると考えられる。
第一段階は、成立年代・著者ともに不明な、吉松家の原系図である。
第二段階は、1668年、吉松種政が、第一段階の系図が虫に食われ、朽ち果てかけているのを発見し、その内容を書き写した段階である。
第三段階は、1830年頃、種政による第二段階の系図を、吉松直江がさらに書き写した段階であり、現在私たちが確認できる「卜部定澄五世的傳」という文言は、この第三段階の写本に残されたものである(なお、第二・第三段階の系図はいずれも、それぞれの筆者の代まで書き足されている)。
この成立過程を前提とすると、「卜部定澄五世的傳」は、「卜部定澄から五世代にわたって伝えられてきた系譜」という意味で、第二段階、すなわち1668年の書写時に記された可能性が高い。
なぜなら、一世代を25〜30年と見積もると、五世代さかのぼった起点は、おおよそ1540年頃に位置づけられ、ちょうどこの時期、一乗谷阿波賀の春日神社の神主として活動していた卜部定澄という人物が、史料上に実在するからである。
以上を踏まえると、最も可能性が高いのは、第一段階の原系図そのものが、1540年頃、この卜部定澄によって作成された、という仮定である。
それを1668年、吉松種政が朽ちかけた状態で発見し、書き写した。その際、原系図に「記・卜部定澄」あるいはそれに類する記述があったことから、自らが写した系図が「卜部定澄から五世代にわたって伝えられてきたもの」であることを示すため、系図の冒頭に「卜部定澄五世的傳」と記した――そう考えることは、十分に合理的であろう。
卜部定澄が、なぜ吉松家の歴史を知っていたのか。
吉松家と卜部氏は、具体的にどのような関係にあったのか。
これらの点について、今となっては確かな答えを得ることはできない。
しかし、卜部定澄の名にも、吉松家の通字にも、ともに「定」という字が含まれているという事実は、偶然として片づけるには、あまりにも印象的である。
これらの仮説と当時の時代背景を踏まえると、初代・吉松定家の正体について、三つの可能性が浮かび上がってくる。
現地採用説:もともと朝倉に住んでいた人物。
中央派遣説:朝廷と関わりがあり、宮司任命のために都から転任してきた人物。
専門家赴任説:宇佐神宮などの神事に精通したプロとして派遣された人物。
個人的には、2の「中央派遣」か、3の「専門家赴任」の可能性が高いと考えている。斉明天皇の朝倉行幸は、百済救援という国家の一大事であった。その成功を祈る重要な祭祀を、たまたま現地にいた人物に任せるとは考えにくいからだ。 おそらく定家は、朝廷や中臣氏、あるいは筑前の宗像氏やト部氏といった中央の祭祀ネットワークに連なる人物であり、「国家の命運を懸けた祈りのプロフェッショナル」として、この朝倉の地に送り込まれたのではないだろうか。
ここで一度、私の立場を示しておく。
初代・吉松定家はもともと中臣氏の近くで朝廷に仕えていた神祇官の卜部氏の一人であり、中臣鎌足や斉明天皇・中大兄皇子らとともに朝倉へ来て、恵蘇八幡宮の祠官となった。そして、このことは卜部氏の一族内にも伝承として残っており、それを1540年頃に卜部定澄が記し、その系図が吉松家にて保管された。
現時点では、このような可能性が一番高いのではと考えている。
吉松家全史物語について
吉松家全史物語の注意事項
第一章:古代・創世記
神話と歴史の交差点
第二章:平安・鎌倉期
祈りと剣の契約
第三章:室町・戦国期
秋月家との血脈と繁栄
第四章:安土桃山期
吉松家最大の危機と決断
第五章:江戸期
現代へつなぐバトン
第六章:近現代
激動の近代と離散、そして再会
あとがき
未来へ続く「吉」を待つ心
【番外編】吉松家の調査を終えて
調査のきっかけなど
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