第五章:江戸期
1. 記録を守る戦い
【主人公:第35代 吉松種政(よしまつ たねまさ)/宮野吉松家】
戦国の世が終わり、徳川の天下となって久しい。私の名は吉松種政。
かつて朝倉の地で剣を振るった先祖たちの物語は、いまや古老が語る昔話の中にしか存在しない。
歴史の表舞台から去った私たち吉松家が直面していたのは、『忘却』という名の静かなる敵だった。
寛文8年(1668年)。私は蔵の奥で、一巻の吉松家の歴史が記された家系図を前に震えていた。
紙は変色し、虫に食われ、触れれば崩れ落ちそうだ。
『今、書き残さなければ、すべてが消える……』
これは、剣を筆に持ち替えた、私の孤独な戦いの記録である
私たち吉松家は、秀吉の九州平定によって神職のトップ(大宮司)の座と領地を奪われ、生き残るために「宮野の神職」と「田中の庄屋」に分かれた。
私は宮野の神職の家に生まれたが、かつての栄光は見る影もない。手元にある古い系図はボロボロで、先祖の名前すら判読が難しくなっていたが、どうやら1540年頃までのことが書かれていた。
「この系図の複製と、その後の吉松家の分家の歴史を残さなければ。」
私は古老たちを訪ね歩き、特に晩年の第32代・種良(たねよし)翁から聞いた話を頼りに、系図の書き写しを始めた。
とりわけ、種良翁がどのようにして秀吉軍による没収の危機を乗り越え、家を守ったか――その苦闘の歴史は、詳細に書き加えた。これが後に「種政系図」と呼ばれることになる。
系図の整理だけではない。天和2年(1682年)、私は恵蘇八幡宮の歴史を後世に残すため、学者の吉田定俊に依頼して「恵蘇八幡宮御縁起(吉田縁起書)」を完成させた。
かつて秋月家という強力なスポンサーがいた頃の華やかな祭りの様子、そして天智天皇・斉明天皇にまつわる由緒。それらを必死に記録した巻末には、「左座祠官 吉松種政」と、私の名が記されている。
私の死後も、この「記録を残す意志」は受け継がれた。それも、吉松家の血を引く頼もしい親戚たちによってだ。
かつて吉松家が行政権限を譲った古賀家と、私たち吉松家は、江戸時代を通じて何度も結婚を重ね、深い親戚関係になっていた。例えば、32代種良の孫娘は、入地村の庄屋・古賀家に嫁いでいる。
宝永4年(1707年)。私がこの世を去った後のことだ。
比良松村の庄屋・古賀重栄(こが しげよし)や、入地村の庄屋・古賀重賢(こが しげかた)らが中心となり、さらに詳細な「恵蘇八幡宮縁起図説」を作り上げた。
彼らは古賀の姓を名乗ってはいるが、その体には吉松種良の血が流れている。
「吉松家が守ってきた神社の歴史を、絶やしてはならない」――その想いは、家名の違いを超えて共有されていたのだ。
この図説には、有名な儒学者・貝原益軒(かいばら えっけん)が序文を寄せており、今も神社の社宝として大切に保管されている。
こうして私たちは、「筆」と「紙」で歴史を残したのである。
2. 泰平の世と八幡信仰の衰退
【主人公:第35代 吉松種政(よしまつ たねまさ)/宮野吉松家】
平和だ。あまりにも平和すぎる。
徳川の世となり、世間では『泰平の世』を謳歌している。もう戦(いくさ)はない。槍も鉄砲も蔵の奥にしまわれ、人々は田畑を耕し、祭りに興じている。
それは喜ばしいことだ。
だが皮肉なことに、この『平和』こそが、私たち吉松家が守ってきた恵蘇八幡宮にとって、とどめを刺す刃となった。
なぜなら、八幡様は『戦の神』だからだ。
戦のない世の中で、戦の神は失業してしまうのだ
かつて戦国時代、恵蘇八幡宮は「戦勝祈願」の聖地として、領主・秋月家や多くの武将たちから熱狂的な崇拝を受けていた。
彼らは勝利のために、広大な土地(七百町歩の神領)を寄進し、毎月のように盛大な祭りを行わせていた。
しかし、豊臣秀吉によってその土地はすべて没収された。
そして江戸時代に入り、この地は黒田藩(および秋月藩)の支配下となり、厳格な「幕藩体制」が敷かれた。
新しい領主・黒田家にとっても神社は大切だ。だが、それはあくまで「領内の安定」のためであり、かつての秋月家のように、一族の運命をかけて八幡宮にのめり込むようなことはない。
私は寂れた社殿の前でため息をついた。
「かつては毎月行われていた祭礼も、今では年に一度、9月15日に行うのがやっとだ」
経済的な基盤(神領)を失い、さらに「戦勝」という最大のニーズも消滅した今、地方の八幡宮は急速に輝きを失っていた。
人々が神に求めるものは「武運長久(戦に勝つこと)」から、「家内安全」や「五穀豊穣」といった日常のささやかな願いへと変わっていたのだ。八幡宮は、時代の変化に取り残されていた。
「金もない、権力もない。今の八幡宮に残されているのは、『由緒』という名の記憶だけか」
私が古系図の編纂や、縁起書の作成に没頭したのは、単なる趣味ではない。
経済的にも困窮し、誰からも顧みられなくなったこの神社の価値を、せめて記録として残しておかなければ、吉松家が千年にわたって守ってきた歴史そのものが、この泰平の世の片隅で消滅してしまうという強烈な危機感があったからである。
平和な時代の到来は、戦乱の世とはまた違う、静かで残酷な「衰退」との戦いを私たちに強いていたのである。
3. 遠き主君・秋月家の宮崎定着
さて、時計の針を少し進める前に、場所を大きく移しましょう。
舞台は筑前・朝倉から南へ遠く離れた、日向の国(現在の宮崎県)。秀吉に敗れ、この地に飛ばされた秋月家と、彼らに付き従った「もう一つの吉松家」の物語です。
朝倉で鍬(くわ)や筆を握った吉松家とは対照的に、彼らは「武士」としての誇りを貫き、南国で新たな歴史を刻んでいました。
1587年、秋月家が日向の高鍋(たかなべ)へ国替えを命じられた時、朝倉の土地を守るために残った本家と、主君・秋月家と共に海を渡った分家たちに分かれました。
なぜ彼らはついて行ったのでしょうか。
おそらく当時、吉松家の一族の中には、秋月家の家臣団の娘たちと幾重にも婚姻関係を結んでいた者たちがおり、彼らにとって秋月家やその家臣団は、単なる主君ではなく、血のつながった「家族」そのものだったことが考えられます。
「主君が泥をなめるなら、我らも共に苦難を背負おう」
彼らは神官の衣を脱ぎ捨て、刀を差した「武士」として、新天地・日向へと旅立ったのです。
これが、高鍋藩士として生きる「宮崎の吉松氏」の始まりです。
移住先の高鍋藩は、わずか3万石の小藩に転落しました。
しかし、彼らは腐りませんでした。むしろ「教育」に力を入れ、人材を育てることで藩を立て直そうとしたのです。
その結晶とも言える人物が、上杉鷹山(うえすぎ ようざん)です。
彼は高鍋藩主・秋月種美(たねよし)の次男として生まれ、後に名門・上杉家(米沢藩)へ養子に入り、破綻寸前の藩を見事に再生させました。
「なせば成る、なさねば成らぬ何事も」
この有名な言葉を残した名君の体には、朝倉の吉松家とも縁の深い「秋月・大蔵」の血が流れているのです。
秋月家に従った「宮崎の吉松家」もまた、高鍋藩(特に串間エリア)で重用されました。
彼らは武士として藩政を支え、特に明治から昭和にかけては、串間のみならず宮崎県の政治・経済の牽引車的役割を果たしており、幕末期に吉松卓蔵(よしまつたくぞう)が市木川北郷(いちきかわきたごう)の庄屋となることで串間の歴史の表舞台に登場し、卓蔵の長男の忠敬(ちゅうけい)、忠敬の長男の忠俊(ただとし)と、3代にわたって山林取得、木材商いなどにより財を成し、また、政界にも進出して、明治から昭和にかけて串間のみならず宮崎県の政治・経済の牽引車的役割を果たしています。
現在も国の指定文化財として残る旧吉松家住宅は、全盛期にあたる大正年間に忠敬・忠俊親子により建築されました。
一方、朝倉に残った第35代・吉松種政(たねまさ)は、ボロボロになった系図を書き写しながら、遠い南の空を誇らしく見上げていたことでしょう。
「あちらでは、我らの同胞が『武士』として主君を支えている。ならば、我らはこの朝倉で『記録』と『土地』を守り抜こう」
離れ離れになっても、根っこは同じ。
遠くで活躍する同族の存在は、平和な時代に「何者でもなくなっていく不安」と戦う朝倉の吉松家にとって、密かな、しかし確かな心の支えだったに違いありません。
4. 宮野吉松家の決断 ——「神職」から「農」へ
【主人公:第39代 吉松種徳(よしまつ たねのり)/改名後:定恒(さだつね)】
時は明和4年(1767年)、江戸時代も半ばを過ぎた頃。
筑前国、朝倉の宮野村。かつては神職の装束に身を包んだ吉松家の男たちが、威儀を正して闊歩したこの屋敷も、今や静寂と、そこはかとない寂寥感に包まれていた。
第39代当主、吉松種徳(たねのり)は42歳になっていた。
彼は縁側で、種政が書いた系図を膝に置き、深い溜め息をついた。
系図には、輝かしい先祖たちの名が連なっている。
斉明天皇の御代から続く「大宮司」の肩書き。戦国大名・秋月家から拝領した、武士との絆を示す誇り高き「種」の文字。
それらはすべて、吉松家が「選ばれし一族」であることの証だった。
だが、今の現実はどうだ。
かつての主君・秋月家は遠い日向(宮崎)へ去り、もう二度とこの朝倉へ戻ることはない。徳川の平和な世において、「戦の神」である八幡様への熱狂的な信仰は薄れ、神社の収入は細る一方だった。
「神職」というプライドだけでは、腹は膨れない。
妻や子に、十分な飯を食わせてやることもできなくなっていた。
「もはや、神職だけで家を維持することはできぬ……」
種徳は悟った。今こそ吉松家は生き方を変えねばならない。 彼は、自分の息子の代で、千年以上続いた吉松家の「神職」としての歴史に幕を引くことを決意していた。
だが、千年続いた看板を下ろすことは容易ではない。家が路頭に迷い、変革の波に飲み込まれてしまう恐れがあった。 そこで種徳は、家がこれから進む新しい道が安泰であるよう、強力な守り神である「荒神様(こうじんさま)」を鎮座させることを決めたのである。
荒神様とは、火の神様とも呼ばれ、一般的には二つの種類がある。 一つ目は火を扱う台所などの守り神で、これは屋内に祀られる。そして二つ目は、家や土地そのものを守る神で、屋外に祀られるものである。 種徳が求めたのは、まさに後者であった。神職を辞める吉松家や、神職を辞めた後も生活を続ける「宮野という土地」を守る神が必要だったのだ。
こうして種徳は、神職としての最後の大役として、中宮野の屋敷の庭と、星之原(ホシノハル)と呼ばれる地域の二箇所に、荒神様を鎮座させる儀式を全身全霊をかけて行った。
(たとえ吉松家が神職を離れる日が来ようとも……この吉松家と、宮野の地が、未来永劫安泰でありますように)
なお、中宮野の屋敷に鎮座する荒神様は石祠として、星ノ原は小規模な神社として建立された。
儀式を終え、中宮野の石祠を彫る石工がノミを振るう音が響く中、種徳は静かに目を閉じ、石工にこう告げた。 「石祠に刻むわしの名前だが、吉松種徳ではなく、『吉松定恒(さだつね)』としてくれ」
そばにいた者は首をかしげたが、種徳の意志は固かった。 「定」の字は、かつて秋月家から「種」の字を賜る前、吉松家が初代から代々名乗っていたルーツの文字である。
「神職としての務めを終えようとする今だからこそ、原点である『定』の名前で神を祀りたい。そして『恒(つね)』は、この宮野の地で吉松家が恒久(永久不変)に生きていくという意味だ」
この荒神鎮座は、神職・吉松家の終わりの始まりであり、同時に、この土地で永遠に生きていくための「根」を張る儀式でもあった。
時は流れ、天明5年(1785年)。
死期を悟った種徳は、二十二歳になった長男・種一と、八歳の次男・正種を枕元に呼んだ。
「……種一、正種よ」 「はい、父上」
種徳は、二人の息子の顔を愛おしそうに見つめながら、静かに語り出した。
「秋月様は宮崎の地で確固たる地位を築かれた。もはや朝倉に戻られることはない。そして今の世は昔のように民衆は神を信仰しておらず、神社にはお金が集まらなくなった。このまま神職だけで生きていくことは困難だ」
種一が居住まいを正して聞いた。 「では、私たちは神職を辞めるのですか」
「いや。お前たちの代までは、神職として務めを果たせ」 種徳は、はっきりとした口調で続けた。
「だが、よく聞け。神官としての吉松家は、お前たち兄弟の代で終わりにするのだ」
「終わり……ですか」
「そうだ。次の代、お前たちの跡継ぎには、神職を継がせるな。宮野神社の祭祀は、外部からふさわしい神職を招いて引き継いでもらいなさい」
種徳は、幼い正種の手を握った。 「吉松家は、神事という『役目』を手放し、この朝倉の豊かな土地で新しい生活を築くのだ」 「種一、正種。お前たちが、神職としての吉松家の最後と代なれ。そして、次の世代に新しい生活を定着させるのだ」
「承知いたしました」 種一と正種は、父の重い遺言を、覚悟を持って受け止めた。 その年、吉松種徳は五十八歳でこの世を去った。墓石には、種徳が生前に示していた吉松家の神職のルーツへの敬意と、土地への定着を願い「吉松定恒」の名が刻まれた。
父の死後、長男・種一が家を継いだが、文化3年(1806年)に四十三歳の若さで急逝した。 この時はまだ宮野神社の宮司の外部引き継ぎを終えていなかったため、後を継いだのは、弟の正種であった。
こうして正種は、父の遺言通り、吉松家最後の宮司として宮野神社を守り続けた。 彼は、兄・種一の分まで心を込め、毎日の祝詞を奏上した。
(父上、兄上。私が神職としての最後を全うします。そして必ず、吉松を次の時代へ繋ぎます)
正種の時代、朝倉は堀川用水と三連水車の恩恵により、豊かな穀倉地帯へと変貌していた。正種は、自らが神職として祭祀を行う傍ら、家の基盤を徐々に農業へとシフトさせる準備を進めていた。
兄・種一は子供を残さず亡くなったが、正種にも子供ができなった。しかし、彼に焦りはなかった。父の教え通り、神職を世襲する必要はなかったからだ。
エピローグ:和作への継承――農家への転身
正種が老境に入った頃、彼は一つの決断を下した。 父・種徳の弟(叔父)である林作の孫、和作(わさく)を呼び寄せたのである。
「和作よ」 白髪の正種は、穏やかな顔で言った。
「父・種徳との約束通り、わしの代で吉松家の神職は終わりにする。宮野神社の鍵は、社家(外部の後継者)に渡すことになった」
和作は静かに頷いた。 「では、宮野吉松家はどうなるのですか」
「お前が継ぐのだ。これからは『宮野で神職をする』吉松家ではない。『宮野で生きる』吉松家だ」
正種は、窓の外に広がる黄金色の田んぼを指さした。 「荒神様が見守るこの家と、先祖代々の墓、そしてこの豊かな田畑。これを守るのが、これからの吉松の務めだ」 「和作。お前はそのまま農民として生きろ。土を耕し、実りを喜び、この地に根を張れ」
「はい、正種様。そのお役目、謹んでお受けいたします」
こうして、宮野神社の祭祀権は吉松家の手から離れ、元々吉松家が宮司家をしていた恵蘇八幡宮をはじめ、朝倉山田地区の神社で宮司を務めている上原家へと引き継がれた。 そして吉松家は、正種の代をもって神職の歴史に幕を下ろし、和作の代から純粋な「農家」として新たな一歩を踏み出したのである。
こうして、1000年以上に渡る吉松家の神職としての歴史が幕を閉じるとともに、もう一つの長い歴史が幕を閉じた。
遡ること天正15年(1587年)。 秀吉に敗れ、秋月氏が去ったあの日。吉松家は「いつか秋月氏が戻る日」を信じて、名前には「種」の字を使い続けた。
さらに、家は神職と行政に家を分けることで、二百五十年もの間、秋月氏と共に朝倉を治めた時代の役割を守り続けてきた。 しかし、結局秋月氏が戻ってくることはなく、時代は変わった。 種徳の決断、そして正種から和作への継承は、吉松家が「待つこと」を辞め、自らの足で新たな道を進むという、長い物語の結末でもあった。
5. 大地を拓く戦い —— 人口増加と新田開発
【主人公:古賀百工(こが ひゃっこう)】
「平和な時代が続くと、人は増える。江戸時代中期、日本の人口は爆発的に増加していた。
人が増えれば、当然、食い扶持(米)が足りなくなる。幕府や各藩はこぞって『新田(しんでん)開発』を奨励し、湖や沼、荒れ地を農地へと変える国家プロジェクトが各地で進められていた。
ここ筑前・朝倉でも、乾いた大地に水を引くための、壮大なる戦いが始まろうとしていた。
指揮を執るのは、古賀家の男・古賀百工。これは、測量機器などない時代に、己の目と足と執念だけで、大河の流れを変えようとした男の物語である」
朝倉の地には、九州最大の大河・筑後川が流れている。
しかし皮肉なことに、川の水面よりも土地の方が高い位置にあるため、その豊富な水はただ目の前を通り過ぎていくだけだった。
江戸時代初期までの朝倉は、少し日照りが続けば作物が枯れる荒れ地や松原が広がり、人々はたびたび飢饉(ききん)に苦しめられていた。
「なんとかして、この川の水を大地に引き込めないか……」
それが、この地に生きる人々の悲願だった。
この難題に挑んだのが、下大庭村の庄屋・古賀百工(義重)だ。
彼は、かつて先人たちが築いた既存の水路(堀川)だけでは水が足りないことを見抜き、取水口を拡張し、さらに分岐させて新しい水路(新堀川)を作るという、途方もない計画を立てた。
だが、現代のような測量機器は存在しない。
土地の高低差をどうやって測るのか。
百工がとった行動は、周囲を驚かせた。
彼は昼間、あちこちの木によじ登っては、じっと地形を眺め、方向を定めたのである。
「おい見ろ、また庄屋様が木に登っとるぞ」
「まるで猿じゃな」
村人たちは、木にばかり登っている彼を「猿どん」と呼んだ。
だが百工は笑われようと構わなかった。木の上からでなければ見えない「水の道」を探していたのだ。
夜になると、今度は提灯(ちょうちん)の出番だ。
百工は村人たちに協力してもらい、夜の闇の中に高張提灯を持たせて立たせた。遠くに浮かぶ提灯の灯りの高さを頼りに、土地の高低差を測り続けたのである。
また、水を張ったタライを使って水平を測るなど、あらゆる工夫を凝らした。
「ここだ。ここに水を通せば、朝倉は宝の土地になる」
気の遠くなるような測量の日々を経て、ついに新堀川の設計図が完成した。
それは単なる水路の工事ではない。朝倉という土地の運命を根底から変える、大プロジェクトの幕開けであった。
6. 田中吉松家の悲劇と献身
【主人公:第38代 吉松種重(よしまつ たねしげ)/田中吉松家】
私の名は吉松種重。
かつては神職や武士として名を馳せた吉松の本流筋にあたるが、今はここ朝倉の「田中村」で庄屋を務めている。
時は宝暦9年(1759年)。私たちの村は乾ききっていた。
目の前には九州最大の大河・筑後川がとうとうと流れている。だが皮肉なことに村の土地は川面より高く、その豊富な水はただ見過ごすことしかできない。
少し日照りが続けば稲は枯れ、村人は飢えに苦しむ。
「目の前に水があるのに、飲めずに死ぬのか」
そんな絶望を断ち切るために立ち上がったのが、大庭村の庄屋・古賀百工(ひゃっこう)殿であった。
彼は筑後川の取水口を広げ、新たな水路(新堀川)を拓くという壮大な計画を打ち立てた。
それは村の希望だった。
だが、その計画を実行する現場の責任者となった私にとっては、命を削る過酷な日々の始まりでもあった。
この巨大プロジェクトにおいて、私、吉松種重が任された役職は、筑後川から堀川につながる取水口を拡大する井手所御仕調(いでしょおしらべ)という工事における人事・総務の責任者だ。
この工事はまさに「泥と血にまみれた現場」だ。
私の仕事は、トンネルを拡大し、堰(せき)を築くための労働力を村中からかき集め、最も危険な最前線へ送り込むことだった。
工事の最大の難所は、取水口にある巨大な岩盤をノミでくり抜く作業で、そこは、まさに地獄だった。
「庄屋の種重どの! もう無理だ! 岩が脆(もろ)くて、いつ崩れてくるかわからねえ!」
「こんな穴の中で死にたくねえ! 俺は帰るぞ!」
工事が始まるとすぐに現場からは、悲鳴と怒号が上がった。石工たちからは作業中止の申し出さえあった。
だが、ここで工事を止めるわけにはいかなかった。なぜなら、ここで諦めれば、来年も、再来年も、村の子供たちは飢えに泣くことになるのだ。
古賀百工をはじめ、新堀川の掘削工事の責任者たちは、この井手所御仕調の作業方法について、予定より大幅に時間がかかるが、その代わりに安全性が確保されたとされる新しい工事計画を練り直した。
「この方法だと、さらに人手が必要でしかも余計に時間がかかる…」新しい工事計画書を読んだ私は、工事を担う村人たちの顔を思い浮かべていた。
しかし、くよくよしていても仕方がない。私はすぐに、村人たちのもとへ足を運び、恐怖に震えるみんなの手を握り、頭を下げた。
「頼む。お前たちの力が必要なんだ。家族を、村を救うために、どうしてもを井手所御仕調の工事は避けられない。あの岩盤を砕かねばならんのだ」
時にはなだめ、時には補償の交渉を行い、怪我人が出ればその家族のもとへ走って詫びた。
「鬼」と呼ばれようと構わない。水さえ引けるなら、私の命などいくらでも削ってやる。
失敗が許されないプレッシャーと激務の中、私の体は、ろうそくの火が燃え尽きるように、静かに、しかし確実に蝕まれていった。
そんな過酷な日々の中で、唯一の救いがあった。
工事が始まったのと同じ宝暦9年(1759年)、息子が生まれたのだ。名は、種煕(たねひろ)。
深夜、泥だらけになって家に帰ると、妻の腕の中で眠る小さな命があった。
その柔らかな頬に触れるときだけ、私は「現場の鬼」から「一人の父親」に戻ることができた。
「種煕よ……。父は今、お前のために川と戦っているぞ」
まだ何もわからぬ赤子の手を握り、私は語りかけた。
「この工事が終われば、この村には水が満ちる。お前が大きくなる頃には、もう飢えに怯えることのない、黄金色の田んぼが広がっているはずだ」
だが、私の体は限界を超えていた。
咳が止まらない。足が重い。視界が霞む。
それでも私は現場に立ち続けた。
岩盤が貫通し、水が流れ込むその瞬間を見るまでは、倒れるわけにはいかなかった。
そして、宝暦10年(1760年)の夏、難工事の末に取水口の拡張がついに完了した。
工事の前はせせらぎのようだった堀川への流水は、岩盤が砕かれ取水口が拡大されたことで、轟音と共に水路へなだれ込んでいた。村人たちの歓声が上がった。
私はその光景を見たと同時に肩の荷が下り、この上のない達成感を感じるとともに、これまでに蓄積した疲労が一気に全身へ襲いかかってきた。
翌・宝暦11年(1761年)9月。
新堀川の拡張作業は順調に進んでいたが、その全線開通を見届けることなく、私は倒れた。享年37。死因は過労によるものだった。
死の床で、私は枕元に妻を呼んだ。
「種煕は……まだ2歳か。父の顔も覚えてはおらぬだろうな」
無念さが胸を締め付ける。
私は子宝に恵まれ7人の子供がいた。これから成長していく息子達の姿を、もっと見ていたかった。読み書きを教え、一緒に田んぼを歩きたかった。
だが、後悔はない。
「妻よ、みんなに伝えてくれ。父は、お前たちに『水』を残したと」
私が命を懸けて引いたこの水は、必ずやこの子を生かすだろう。
そして、いつかこの子が成長した時、私が引いた水を見て、何かを感じてくれると信じている。
「頼んだぞ、みんな。この水を……この村の未来を……」
父の顔も知らずに育つことになる幼子、吉松種煕。2歳だった彼は、まだこの父の言葉は理解していなかっただろう。
しかし彼がやがて成長し、父が命を削って引いたその「水」を使って、朝倉の風景を一変させる奇跡の発明をすることになるのだ。
父の命と引き換えに得た水は、静かに、力強く、次世代の英雄を育むために流れ始めたのである。
7. 吉松種煕の発明と三連水車
【主人公:第39代 吉松種煕(よしまつ たねひろ)/田中吉松家】
父・種重が、過労により37歳の若さでこの世を去った時、私、吉松種煕はまだ2歳だった。
だから父の顔は覚えていない。ただ、村人たちが語る「あの岩盤工事は地獄だった」「お前の父上が、半年間まともな睡眠もとらずに、みんなに頭を下げて誰も行きたくない工事の人員手配や報酬の配分を行い、この村に水を引いてくれたのだ」という言葉だけを聞いて育った。
明和元年(1764年)、私が5歳になった頃、父の命と引き換えに完成した「新堀川」に、ついに筑後川の水が流れ込んだ。
確かに水は来た。
だが、成長するにつれ、私はある残酷な現実に気づくことになる。堀川の水面よりも、土地が高い場所にある田んぼには、人力でないと水が入らないのだ。
一つの田に水を引くのには、2〜3人がかりで半日以上の時間を要しており、農民たちは、低い位置を流れる水を恨めしそうに見つめながら、日照りに怯えたりしていた。
父が命を懸けて引いた水が、ただ目の前を通り過ぎていく。
(これでいいのか。父上の仕事は、これで完成と言えるのか)
成長し、書物を読み、機械の仕組みに興味を持つようになった私は、ある一つの考えに取り憑かれるようになった。
「父が引いた水を、私が汲み上げてみせる」
こうして私は、朝倉の風土に合った、自動で水を汲み上げる装置の開発に没頭した。新堀川に流れる大量の水を高く汲み上げるには、特別な工夫が必要だった。
来る日も来る日も図面を引き、木を削った。
周囲からは「庄屋の息子が、また道楽を始めた」と白い目で見られたかもしれない。だが私には確信があった。この技術こそが、父の遺業を真に生かす唯一の道なのだと。
そして、一つの答えにたどり着いた。
川の流れそのものを動力とし、巨大な車輪についた柄杓(ひしゃく)で水を汲み上げ、高い位置にある樋(とい)へと流し込む「水転車(すいてんしゃ)」の構想だ。
私は、その構造を証明するために、自らの手で「水転車の模型」を製作した。
それは単なる思いつきの絵空事ではない。水力学と計算に基づいた、精巧なエンジニアリングの結晶だった。
「これを、使ってください」
私は完成した模型を抱え、郡の役所へと提出した。
「灌漑(かんがい)の利を試みるために作りました。これがあれば、高い土地にも水を行き渡らせることができます」
私の提案は、単なる模型の寄贈ではなかった。
父が命を懸けた堀川事業を、次の段階へと進めるための具体的な技術提言だったのだ。
そして寛政元年(1789年)。
父の死から28年の時を経て、堀川用水に巨大な水車が設置された。
激しい水音と共に、巨大な車輪が回り始める。
柄杓が水をすくい上げ、空中で弧を描き、高台の田んぼへと水を注ぎ込んだ。
一つ、二つ、三つ……。
後に「朝倉の三連水車」と呼ばれることになるその装置は、まるで生き物のようにうなりを上げ、乾いた大地を潤し始めた。
「水だ! 水が登っていくぞ!」
農民たちの歓声を聞きながら、私は心の中で父に語りかけた。
(父上、見ていますか。あなたが引いた水が、今、空を飛んで田んぼへ届いていますよ)
エピローグ:時を超えた父子の連携
その後、73歳でこの世を去った私の墓石には、その生涯を称える言葉が漢文で刻まれることになった。
「叟諱種熙本姓大蔵〇本州上座郡田中里人 壯好読書常考器械之制以思供〇国用又学 造水転車屡試灌漑之利 遂自製一小偃車以責郡庁 天保三年十月十六日以病死七十三 没之後〇官命賜金于家賞其精思工巧殊至也」
【現代語訳】
(翁の忌み名は種熙、本姓は大蔵。筑前国上座郡田中村の里人なり。壮年の頃より読書を好み、常に器械の仕組みを考え、国の役に立ちたいと願っていた。
また学問を修め、「水転車(水車)」を造って、しばしば灌漑(田畑への水やり)への利用を試みた。ついに自ら一つの「小偃車(水車模型)」を製作し、これを郡の役所に提出した。
天保3年10月16日、病により死す。享年73歳。没後、お上より遺族に金一封が下され、その「精思工巧(深く考え抜かれた精密な技術)」が並外れたものであると賞された。)
父・種重が命を削って水を引いた堀川。
そして息子である私が、その水を大地へ送るために知恵を絞って生み出した水車。
役所からその技術(精思工巧)を称えられ、遺族に金一封が贈られたという事実は、親子二代にわたる執念が、ついに公に認められ、朝倉の大地に根付いた証左でもあった。
8. 吉松直江の筆
【主人公:吉松直江(よしまつ なおえ)/種煕の娘・医師】
「父上は、知恵で、この大地に『水』を巡らせました。ならば私は、筆と墨で、この一族に『歴史』を流し込みましょう」
私の名は吉松直江。先ほど語られた発明家・吉松種煕の娘である。
時は江戸時代の終わり頃。父が考案した水車が朝倉の田畑を潤しているのを見届けた後、私たち一家は、先祖代々暮らした田中村を離れ、商人の町・博多へと移り住んだ。
私は女性の身でありながら学問を志し、筑後や京都で医学を修め、産婦人科の医師として博多で開業した。
身分の貴賤を問わず診療したことで、それなりに繁盛したと自負している。
だが、私が後世に残した最大の仕事は、医術ではない。
それは、一巻の「系図」である。
私たち一家が博多への移住を行った後、私はある危機感を抱いていた。
「私たちが故郷・朝倉を離れたことで、吉松家の歴史を残す人はいなくなるかもしれない」
私は、小さな頃に宮野吉松家に訪れた際に読んだ古い吉松家の系図を見て、吉松家が歴史ある家系だということを認識していた。
しかし、私達が博多に移住した頃には、宮野吉松家は神職の世襲を辞めて農家となり、田中吉松家も田中村の庄屋の世襲を辞めようとしていたことで、吉松家は、661年からこの朝倉の地で神職と行政を担ってきた吉松家から、地に足をつけた土着の吉松家に変わろうとしており、吉松一族の中でも過去の吉松家の歴史を残そうとする人はだんだんと減っていた。
「今、書き写さなければ、吉松家の物語が消滅してしまうかもしれない」
私は小さな頃に宮野吉松家の系図を求めて、宮野村の吉松家を訪ね、吉松家の古い系図を拝借した。
その系図こそ、約170年前(寛文8年・1668年)に、吉松種政が書き残した古い系図「種政系図」である。
私は医師としての忙しい日々の合間を縫って、筆を執った。
単に書き写すだけではない。種政様が書かれた後の空白の170年間の物語も父・種煕や、田中村の庄屋として生きた先祖たちの記録を親戚たちに問い合わせ、執念で埋めていった。
私が完成させた系図の表題は、『大蔵姓系譜(おおくらせいけいふ)』。
「吉松」だけではなく、あえて古代の「大蔵(おおくら)」の姓の系図も記載した。
それは、私たち吉松家が、漢の高祖・劉邦に連なるとされる大蔵氏・原田氏、そして戦国大名・秋月氏の血を引く一族であるという、強烈な誇りの表れだった。
私は系図の中で、人物をつなぐ線を三本の線で使い分けた。
本家筋、秋月家と交わる前の古い吉松家、そして分家した吉松家。
それは、複雑に入り組んだ一族の血脈を整理するための、私なりの工夫であり、医師としてカルテを書くような緻密さで、家の歴史を診断し、保存しようとしたのだ。
この系図は、誰かに見せるための豪華な巻物ではない。
質素な紙に書かれた、私自身のための手控え(メモ)だった。
その後、私が書いたこの系図は後世の代で「直江系図」と呼ばれ、吉松家の歴史を未来に残すことに多大な貢献をすることになる。
吉松家全史物語について
吉松家全史物語の注意事項
第一章:古代・創世記
神話と歴史の交差点
第二章:平安・鎌倉期
祈りと剣の契約
第三章:室町・戦国期
秋月家との血脈と繁栄
第四章:安土桃山期
吉松家最大の危機と決断
第五章:江戸期
現代へつなぐバトン
第六章:近現代
激動の近代と離散、そして再会
あとがき
未来へ続く「吉」を待つ心
【番外編】吉松家の調査を終えて
調査のきっかけなど
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