第三章:室町・戦国期

13世紀末から14世紀初頭にかけて、鎌倉幕府は深刻な行き詰まりを迎えていた。

元寇という未曾有の外敵を退けたものの、幕府が元寇を抑えた武士達に恩賞を与える土地はなく、御家人たちの不満は蓄積していく。幕府は財政的にも軍事的にも疲弊し、かつての結束力を失っていた。

この隙を突いたのが、後醍醐天皇である。天皇は武家政権を打倒し、再び天皇中心の政治を取り戻そうとし、各地で倒幕運動が広がった。やがて足利尊氏、新田義貞ら有力武将が幕府に反旗を翻し、1333年、鎌倉幕府は滅亡する。

しかし、幕府崩壊後に始まった、天皇自らが政治を行う「建武の新政」は、武士たちの期待に応えるものではなかった。土地支配や武功評価をめぐる不満が噴出し、やがて足利尊氏は後醍醐天皇と対立。

ここに、天皇を中心とする南の朝廷(南朝・吉野朝廷)と、足利氏が擁立した北の朝廷(北朝・京都朝廷)が並立する南北朝時代が始まる。

この動乱は、単なる「朝廷の争い」ではない。

全国の武士たちが、「どちらに付くか」「いつ寝返るか」という究極の選択を迫られる、生き残りを懸けた時代だった。

1. 秋月氏の躍進

こうした激動の時代に、筑前・朝倉の秋月氏もまた、否応なく荒波に巻き込まれていく。

第6代当主・秋月種貞は、南朝方に味方し、九州における南朝の有力武家である菊池氏と行動を共にした。建武3年(1336年)、博多湾岸で行われた多々良浜の戦いにおいて、足利尊氏軍と激突するが、その結果は壊滅的な敗北であった。

種貞は大宰府へと落ち延びるものの、足利直義軍に包囲され、一族郎党20余人と共に討ち死にする。ここで秋月家は、文字通り「滅びていてもおかしくない」状況に追い込まれた。

だが、秋月氏はここで終わらなかった。

生き残って家督を継いだ第7代・秋月種高は、父の戦死を前にして、感情ではなく現実を選ぶ。彼は南朝を見限り、北朝勢力、すなわち足利方へと転じたのである。

正平14年(1359年)、筑後川流域で起きた大保原の戦いでは、少弐氏と共に足利方として参陣し、かつての同盟者であった菊池武光と刃を交えることになる。

この選択は、「勝ち馬に乗った」という単純な話ではない。「理想」よりも「家を存続させること」を優先した、冷徹で現実的な決断だった。

この判断によって、秋月家は南北朝の激流の中で生き残り、室町時代へと命脈をつなぐことに成功する。

南北朝の混乱が次第に収束し、室町幕府の体制が整うと、九州では新たな勢力争いが始まる。その中心にいたのが、中国地方から北九州へと勢力を伸ばす大内氏であった。秋月氏はこの動きをいち早く察知し、強大化する大内氏の傘下に入るという選択を取る。

そして15世紀前半、第11代当主・秋月種氏の時代、決定的な転機が訪れる。

永享元年(1429年)、種氏は大内氏の推挙を受け、室町幕府から正式に「所領安堵」を受けた。これはつまり、将軍から正式に秋月という土地の所有や支配権を認められたことになる。

これは単なる形式的な承認ではない。かつて鎌倉幕府崩壊と南北朝の戦乱の中で「敗者」となりかけた一族が、幕府公認の領主として、法的・政治的な正統性を手に入れた瞬間だった。

ここに至って秋月氏は、在地の有力豪族という段階を超え、筑前国において無視できない政治的存在へと成長する。

こうして築かれた地位は、次代・種照へと受け継がれ、やがて秋月氏は「武力」だけでなく、「精神的権威」をも取り込むため、古来よりこの地を支えてきた吉松家との結びつきを強めていくことになる。

それは、乱世を生き延びた武家が、土地の記憶と祈りをも抱え込もうとする、新たな段階への一歩でもあった。

2. 八幡信仰の隆盛と運命の婚姻

【主人公:第26代 吉松定元(よしまつ さだもと)】

私は第26代・吉松定元。時は室町時代中頃、15世紀の半ば。世の中はやがて「応仁の乱」へと雪崩れ込んでいく、不穏な気配に満ちていた。秋月家のような武家も、我が吉松家のような社家も、いつ足元が崩れるか分からぬ、そんな時代である。

その頃、かつて朝倉・須川地域の領主であった星野家は生葉(現在のうきは)まで南下し、代わりにその地を治めていた領主が、秋月種照公であった。秋月家と吉松家は、すでに長年にわたり、領主と社家として協調関係にあったが、ある日、両家の将来を見据えた話が静かに持ち上がることになる。

「この先の乱世を生き抜くには、武だけでも、祈りだけでも足りぬのではないか」

そうした空気の中で浮かび上がったのが、両家を結ぶ婚姻の話であった。結果として、私の娘が、秋月家の正室として迎えられることになるが、それは決して一方の思惑だけで決まった話ではない。

一介の神官の娘が、武家のお殿様の正室となる。後世の感覚では「身分違い」に見えるかもしれない。だが、戦乱の時代においては、これは極めて理にかなった選択であった。

当時の武士たちが、戦の中で何より恐れ、同時にすがった存在・それが戦の神様こと八幡神である。日々、戦場で命のやり取りを重ねる彼らにとって、八幡神の加護は、兵の数や武勇に勝るとも劣らぬ「力」であった。

秋月家は代々、我ら吉松家が奉斎する恵蘇八幡宮を氏神として篤く崇敬してきた。武によって地を治める秋月家と、祈りによって神意を伝える吉松家。この二つの家が、より強く結びつくことは、乱世において双方にとって大きな意味を持っていたのである。

秋月家にとっては、八幡宮の大宮司家と血縁を結ぶことで、支配の正統性と精神的支柱をより強固なものとできる。一方、武力を持たぬ社家である吉松家にとっても、領主との婚姻関係は、祭祀と神社を守り続けるための確かな後ろ盾となる。

このような在り方は、決して珍しいものではなかった。隣国・豊後を治めた大友氏が、奈多八幡宮の大宮司家と婚姻を結んだ例が示すように、有力な神社の神職と血縁を結ぶことは、「神に選ばれた支配者」であることを示す、当時としては極めて現実的な政治判断でもあったのだ。

私は熟考の末、この縁を受け入れることを決めた。

「この婚姻は、秋月家のためだけのものではない。吉松家が、この地で祈りを絶やさず生き続けるための道でもある」

こうして、私の娘は秋月城へと嫁いでいった。

剣を手にする「武」の家と、神に仕える「祈り」の家。異なる役割を担ってきた二つの力は、この婚姻によって、互いを補い合う存在として結びついたのである。

こののち、吉松家と秋月家は親戚関係となり、当主とならなかった吉松一族の男子の中には、秋月家の家臣として仕える者も現れることとなった。

3. 「種」の字の拝領と吉松家の変貌

【主人公:第27代 吉松種助(よしまつ たねすけ)/旧名:定助】

私は第27代、吉松種助。私は秋月種照公の次男として生まれ、その後、秋月家からの養子として吉松家に入った。もともとは、初代・定家以来、約800年にわたって吉松家が守り続けてきた『定(さだ)』の字を受け継ぐ者として、『定助(さだすけ)』と言う名であった。

しかし、寛正4年(1463年)。私の運命、いや吉松家そのもののあり方を決定的に変える出来事が起きた。
実の父であり、秋月家の当主である秋月種照(あきづき たねてる)公から、ある重大な命令が下されたのだ

「定助よ、お前が吉松の家に入ってからの祈祷の功績、見事である。八幡神の加護あればこそ、我ら秋月家も戦を勝ち抜いてこられた」

そして種照公は、信じがたい言葉を続けた。

「褒美として、我が名の一字『種(たね)』をお前に授ける。これより『定助』を改め、『種助(たねすけ)』と名乗るがよい。そして今後、吉松家の子孫は代々『種』の字を受け継ぐのだ」

私は震えた。
「種」の字は、ただの漢字ではない。
それは、漢の高祖・劉邦(りゅうほう)の末裔とされ、九州の名門武士団である「大蔵(おおくら)氏・原田氏」が、一族の証として代々受け継いできた誇り高き文字(通字)なのだ。

「定」から「種」へ。この改名は、吉松家が単なる神職の家から、「大蔵一族(秋月一門)」という武士団の正式なメンバー(外戚)として組み込まれたことを意味していた。

「私は神に仕える者だが、その血管には武人の血が流れている」

この日を境に、私たち吉松家は「祈り」と「武力」の両面を持つ一族として、戦国の世を秋月家と共に生き抜く覚悟を決めたのである。

そしてこの「種」の字は、これより約400年もの間、吉松家の当主たちの名に刻まれ続けることになる。

また、種助以降の吉松家当主は、この朝倉の土地での百官名(ひゃっかんな)として「式部」を名乗ることを秋月家から許された。

これは、武家の家臣としての格式や家柄、功績を公認し、社会的地位を高める意味がある。また、百官名とは、朝廷の正式な官位ではなく、主君が家臣の家格を上げ、領地支配や家臣団の統制(統制)を円滑にするための栄誉を意味した。

そして、「式部」とは、祭祀や儀礼のプロフェッショナルのことを指す。つまりこれは吉松家が秋月家内の祭祀や儀礼において、名誉ある責任と役割を正式に与えられたことを意味した。

4. 吉松種家の「民部」襲名

【主人公:第31代 吉松種家(よしまつ たねいえ)】

私は第31代、吉松種家。我が吉松家は27代・種助から30代・種秀まで代々『式部』を名乗ることを許されてきた。

だが見ての通り、世は戦国。主君・秋月家は、東の大友、南の島津といった強敵と日々戦っている。
そんな中、ただ社の奥で祝詞を上げているだけでは、もはやこの地を支えきれない。

そう考えていた、ある日、私は主君・秋月家より新たな名を許された。
それが「民部(みんぶ)」である。

「式部」が祭祀儀礼の担当官だとすれば、「民部」は戸籍や税、土地を管理する「行政長官(民政官)」の意味を持つ。

誤解しないでほしい。
私が「民部」になったからといって、鎧を着て戦場を駆け回るわけではない。武力は、最強の武士団である主君・秋月家に任せればよい。

私に求められたのは、秋月家が戦に勝つための「足場」を固めることだった。

戦には兵糧(米)が要る。武器を揃える金が要る。
そして何より、領内の民が安心して暮らせる秩序が要る。

私は決意した。

「承知いたしました。今日より私は『民部』を名乗ります。神に祈る手で帳簿をめくり、秋月様の武威を背に、この朝倉の地を盤石なものにいたしましょう」

こうして吉松家は、単なる神官から、徴税や戸籍管理といった行政権を担う「実務官僚」としての側面を併せ持つようになった。
私の息子、第32代・種良(たねよし)もまた「民部」を名乗り、この激動の時代を秋月家と共に生きることになる。

「武力の秋月」と「実務と祭祀の吉松」。
剣を持つ者と、それを支える者。役割を分かち合ったこの関係こそが、戦国の嵐の中で朝倉の地を安定させていた要(かなめ)だったのである。

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