古賀新左衛門物語 〜朝倉古賀家と比良松の始まり 〜

【序文】 本物語は、朝倉吉松家に伝わる系譜を元にし、朝倉古賀家に関する公開情報および地域資料に基づき構成されています。会話や情景描写には著者の推察による創作を含みますが、激動の時代を生き抜いた先人たちの想いに忠実であることを旨としています。(著:坂田 拓也)


序章:少弐の血と誇り

我が名は古賀新左衛門重儀(こが しんざえもん しげよし)。 かつて筑前国上座郡(現在の朝倉)にて、多くの村々を束ねる「惣庄屋(そうじょうや)」を務めた男である。

惣庄屋(そうじょうや)とは 江戸時代の地方行政において、郡(ぐん)や藩領内にある複数の村(手永・組などと呼ばれる行政区画)を束ねる、大庄屋(おおじょうや)に相当する上級の村役人です。 領主からの命令伝達や年貢徴収の責任を負い、各村の庄屋(名主)を統括する、村と領主をつなぐ中間管理職・リーダー的役割を担っていました。

我が身に流れる血は、決して軽いものではない。 ルーツは鎌倉の世、元寇の際に敵を撃退した英雄・少弐景資(しょうに かげすけ)にある。私の祖父・重頼は少弐家当主の末子として生まれ、景資の血を引く分家へ養子に入った。 すなわち、私の中に流れているのは、かつて北九州の覇者であった少弐家直系の、誇り高き血脈そのものなのだ。

第1章:龍造寺の裏切りと隠遁

しかし、戦国の世は無情であった。

祖父・重頼の代のことである。1506年、西国の巨大勢力・大内氏との戦いにおいて、祖父は奮戦したものの、圧倒的な兵力差の前に力尽き、無念の戦死を遂げた。 その後、敵対する大内氏が少弐氏の一族を残らず捜し出して殺そうとしたため、私の父・重房(しげふさ)とその家族は、大内の目を逃れるため、故郷である御笠郡唐古賀(とうこが)を離れて、飯塚の穂波那弥山(ほなみ なみやま)の山奥へと身を隠した。

1523年、私はまさにこの飯塚の山奥で産まれた。 (※御笠郡唐古賀は、現在の太宰府市通古賀地区と見られる)

一方で、なんとか生き延びた少弐家当主・資元(すけもと)様は、肥前(佐賀)の地にて再起を図っていた。資元様は重臣である龍造寺氏を信頼して手を組み、大内氏へのリベンジの機会を伺っていたのである。

飯塚の山奥にいた父・重房は、遠く肥前の空を仰ぎ、希望を捨ててはいなかった。 「資元様が龍造寺とともに大内を打ち破れば、いつかまた、我々も胸を張って故郷・唐古賀に戻れる」 父はそう信じ、息を潜めてその時を待っていた。

しかし1535年、最悪の凶報が飯塚の父のもとに届く。 我々が重臣として信頼していた龍造寺家兼(いえかね)が、あろうことか敵である大内氏に通じ、主家である少弐家を裏切ったのである。この卑劣な裏切りにより、当主・資元様は肥前の多久(たく)にて包囲され、無念の自害に追い込まれた。

「……もはや、これまでか」 頼みの綱であった当主・資元が敗れ、少弐家の再興の道は完全に途絶えた。父・重房は悩み抜いた末に、一族を守るための非情な決断を下した。

「これより、わしらは生き残るために、『少弐』という姓は捨て、故郷の地名『唐古賀』から文字をとった『古賀』と名乗る。武士を辞め、農民となって家を存続させよう」

これが、私たち古賀家の始まりである。1546年のことであった。

第2章:須川の開拓と、吉松家との出会い

私が31歳になった1554年。かつて我々を追っていた大内氏はすでに没落し、世の情勢は変わっていた。

私は父の遺言に従い、農民として生きていく道を模索していた。その時、私の脳裏にある一つの場所が浮かんでいた。筑前朝倉の宮野である。 そこには、我ら少弐家の遠祖・藤原鎌足公が自ら創建したとされる由緒ある「宮野神社」が鎮座していることを、私は知っていた。

「ご先祖様にゆかりのある地ならば、きっと我らを受け入れてくださるに違いない」 私は迷うことなく、一族を率いて飯塚の山を下り、朝倉を目指すことを決心した。

宮野神社を訪ねると、そこは朝倉地域で最も権威のある社家の吉松家当主・吉松種家殿が大宮司を務めていた。 「種家殿。我らは少弐一族の末裔。大内氏が没落した今、山を下り、祖先・藤原鎌足にゆかりあるこの地へ、農民として生きる道を求めて参りました」

すべてを打ち明けた私に対し、種家殿は深く頷き、快く受け入れてくださった。そして須川という地区の一部を切り開き、そこに新しく小さな村を作ることを提案された。我々は感謝と共に、すぐにその地へ住むことを決めた。

第3章:若き主君との密約

それから30年余り。私はこの地で懸命に働き、地域の古老として信頼を得ていた。 しかし1587年、豊臣秀吉による九州平定という激震が走った。

朝倉を治めていた秋月氏は宮崎へ左遷され、新たに小早川隆景が領主となった。吉松家もまた、特権を没収される危機に立たされた。この時、吉松家の当主は、種家殿の息子・種良(たねよし)殿に変わっており、まだ21歳の若者であった。

ある日、種良殿が私の屋敷を訪ねてこられた。その表情には、隠しきれぬ苦悩が滲んでいた。 「新左衛門殿。秋月様が去り、我ら吉松家も危うい。民部の職も辞さねばならぬだろう……」

吉松家は、はるか昔、941年に大蔵春実公より広大な神領地を寄進されて以来、朝倉の大宮司家として君臨してきた。近年では神職(式部)に加え、行政実務(民部)も兼ねるようになっていたが、新領主の時代となり、旧領主側である吉松家が表立って行政を牛耳ることは危険視される状況だった。

「民部」と「式部」 「民部(みんぶ)」や「式部(しきぶ)」といった言葉は、律令制時代の役職名が「百官名(ひゃっかんめい)」として武家や町人の通称として使われたものです。

  • 民部: 民政・戸籍・財政・土地などを管轄する「民部省」に由来し、民衆の管理や行政事務を指す。

  • 式部: 儀式・学問・文官の人事考課を扱う「式部省」に由来し、文教や儀礼に関わる意味合いで使われた。

種良殿は、私の目を真っ直ぐに見つめて言った。 「我々はこの地で秋月様の帰りを待ち、我が吉松家が行政と神職に携わる体制を維持せねばならぬ。しかし、吉松家が表に立ち目立ちすぎるのは危険であるとともに、なにより、私だけでは新領主の役人たちと渡り合う術もない……。新左衛門殿、貴殿には少弐一族としての血と知恵がある。どうか、私の代わりに朝倉の『触口(ふれぐち)』となり、実務を取り仕切ってくれぬか」

触口(ふれくち)とは 主に触書(お触書)や達(おたっし)といった幕府や藩からの通達文書を、関係機関や町役人、村役人などを通じて庶民に伝達する役割、またはその伝達業務自体を指します。室町時代から江戸時代にかけての「走衆(はしりしゅう)」と呼ばれる伝達役も含まれ、法令や命令を「触れる(伝える)」という行為に由来します。

それは、若き主君からのSOSであり、同時に全幅の信頼の証であった。 かつて信頼した龍造寺に裏切られた痛みを知る私だからこそ、この若者の純粋な信頼に応えたいと思った。

「承知いたしました。居場所がなかった我らを受け入れてくださった朝倉の地と、吉松家のために、この命を使いましょう」

こうして私は、役人と地域をつなぐ「触口」として、そして若き種良殿を陰から支える実務の最高責任者「惣庄屋」として、この地を守り抜く道を選んだのである。

第4章:恵比寿様と平松

朝倉の「触口」と「惣庄屋」を務めることが正式に決まり、様々な準備を一通り終えた後に、種良殿から新たな提案があった。 「古賀家の惣庄屋としての新たな門出として、この地に恵比寿様をお祀りして、五穀豊穣を祈られてはいかがか」

当時、吉松家といえば、あの秋月氏も戦勝祈願を頼むほどの名門社家であった。そのような方に祭祀を行っていただけるとは、望外の喜びであった。

種良殿は白装束に身を包み、厳粛に「魂入れ」の儀式を執り行ってくださった。恵比寿様は石をご神体として祀られた。 種家殿が祝詞を上げ、私が玉串を捧げる。その瞬間、この地に来てまだ30年しか経っていないよそ者であった古賀家と、この地で900年の歴史を持つ吉松家との間に、主従を超えた「敬意の絆」が結ばれたのである。

我々はこの恵比寿様の傍らに、若き松を植えた。 その松は不思議なことに、枝が四方へ平らに広がり、まるで我々の安寧を覆い守るかのような形となった。人々はこれを「平松(ひらまつ)」と呼び、地域のシンボルとなった。 (※これが後の地名「比良松」の由来である)

第5章:黒田長政公と拝領の茶碗

時は流れ、関ヶ原の戦いを経て、筑前の主は黒田長政(くろだ ながまさ)公へと代わった。 1601年(慶長6年)、福岡城(舞鶴城)の築城が始まると、私は朝倉の人々を率いて城の建設に参加した。

その現場でのことである。長政公が私の働きぶりに目を留められ、昼食の席で声をかけられた。 「古賀新左衛門。聞けばそなたは、あの少弐家の血を引く者だというではないか。どうだ、再び武士に戻り、予に仕えぬか?」

大名からの直々の誘い。心が揺れぬと言えば嘘になる。だが、私には守るべき地と、亡き父の遺言があった。 「ありがたきお言葉。しかし、私は農民として生きると決めております。何より、今の私には朝倉で為すべき役目がございますゆえ」

長政公は豪快に笑い、ご自身が昼飯に使っておられた「黒塗りの飯碗(黒田藤の紋入り)」と「玉子形の茶碗」を、その場で私に手渡された。 「ならば、これを持っていけ。武士よりも誇り高き農民への褒美だ」

終章:一族の繁栄

私は85歳で天寿を全うするまで、朝倉の惣庄屋としての責務を果たした。 長政公より拝領した茶碗と飯碗は家宝として伝わり、3人の息子たち(重宗、重勝、重利)もまた、それぞれ庄屋として吉松家との盟約を守り抜いた。

我々は武士の刀を置いた。 しかし、「古賀」と名を変え、泥にまみれてもなお、少弐の誇りと吉松家への忠義は、比良松の根のように深くこの地に息づいているのである。


番外編01:古賀家と吉松家の深い関係

古賀新左衛門が亡くなった後も、古賀家は吉松家と深い関わりを続けました。 戦国時代の動乱期に、古賀新左衛門(重儀)が吉松種良(32代当主)を頼って朝倉の地で行政の実務者(触口・惣庄屋)となって以来、両家は江戸時代を通じて「血縁」「職務」「歴史の継承」という三つの側面で、分かち難い強固な絆を築いていきました。

1. 幾重にも結ばれた「血縁の絆」 両家は単なる仕事上のパートナーではなく、度重なる婚姻によって親戚関係を深めていきました。特に吉松家が神職から地域の指導者へと転換する時期、その血脈は古賀家に受け継がれています。

  • 種良の孫が古賀家へ: 吉松家中興の祖である32代・吉松種良の孫娘(長女の娘)は、入地村の庄屋・古賀惣右衛門に嫁ぎました。

  • 本家当主の妻も古賀家から: 江戸時代、田中村で庄屋を務めた田中吉松家の当主たちも、度々古賀家の娘を妻に迎えています。例えば、36代・吉松種貞の妻は長淵村庄屋・古賀又三郎の娘であり、38代・吉松種重の妻は宮野村の古賀武左衛門の娘でした。

このように、吉松家の血は古賀家の庄屋たちの中に流れ、古賀家の娘が吉松家を支えるという、双方向の親密な関係が続いていました。

2. 「職務」のリレー:吉松家のピンチを古賀家が救う 吉松家が政治的な理由やトラブルで役職を退かざるを得なくなった際、その受け皿となったのが古賀家でした。

  • 清兵衛事件の跡継ぎ: 吉松本家の流れをくむ吉松清兵衛(種友)が、讒言(ざんげん)により宮野・鳥集院村の庄屋を追放された際、その跡役(後任)を引き受けたのは、古賀新左衛門のひ孫にあたる古賀重次でした。

  • 庄屋ネットワーク: かつて吉松家が管理していた恵蘇八幡宮の社領(旧免上地)であった村々では、古賀一族が多くの庄屋を務め、吉松家が去った後の地域行政を支え続けました。

3. 「歴史と誇り」の共有:恵蘇八幡宮縁起の編纂 両家の絆が最も象徴的に表れているのが、荒廃していた恵蘇八幡宮の歴史書(縁起)を復元・作成した事業です。 1707年(宝永4年)、八幡宮の由緒を後世に残すために『恵蘇八幡宮縁起図説』が作られましたが、これを執筆・編纂したのは以下の3名の庄屋(農長)たちでした。

  • 古賀重栄(比良松村庄屋)

  • 古賀重賢(入地村庄屋)

  • 樋口秀信(山田村庄屋)

重要な点は、このうちの2人(古賀重賢と樋口秀信)が、かつての大宮司・吉松種良の血を引く子孫であったという点です。 吉松家が表舞台から退いた後も、その血を引く古賀家の人々が、かつて吉松家が守り抜いた神社の歴史を熱心に調査し、儒学者の貝原益軒に序文を依頼してまで立派な記録として残したのです。

まとめ 古賀家と吉松家の関係は、「吉松家が守ってきた権威と歴史を、実務能力に長けた古賀家が支え、継承した」と言えます。 古賀家の人々が熱心に吉松家の歴史(八幡宮の縁起)を書き残したのは、彼ら自身の体の中に吉松種良の血が流れており、祖母や母から「かつての吉松家の栄光と無念」を語り継がれていたからこそ、その誇りを守ろうとした結果であったと考えられます。

番外編02:現在の比良松の恵比寿様

福岡県朝倉市、かつて日田街道の要衝として栄えた宿場町・比良松。この町の名前の由来となった場所に、今も静かに、しかし力強く鎮座しているのが「比良松の恵比寿様」です。

明治10年(1877年)頃、火災によって平松地域の象徴であった松は失われてしまいました。また、その頃の道路工事の際に恵比寿様の御神体も、付近の厳島神社の境内へ移したとの記録が見られます。

厳島神社は、土地や水を守る神様です。比良松の厳島神社は高台にあり、この場所に神社を建立する際にこの立地を選んだ背景には、高いところから地域を見守るという意味を込めたと考えられます。 一方で、恵比寿様は商売の神様と呼ばれ、商売や市場の賑わいを見守る神様です。つまり、「商いが行われる通り」や「人が行き交う場所」にいてこそ力を発揮する神様なので、厳島神社とは性格が異なります。

恵比寿様を厳島神社の境内に移設した後の記録は見つかりませんでしたが、現代の比良松地域を巡ると、旧・日田街道の西部には「恵比寿神社」があります。ここには恵比寿様の石祠とその真後ろに背の低い松が植えられています。また、この場所は、商人や旅人の通行が多い日田街道における比良松の入口とも言える場所です。

このことから推察すると、一度、厳島神社の境内に移設された恵比寿様は、後にこの場所に独立した神社として祀られたと考えることが自然でしょう。

番外編03:古賀と吉松の協力が生んだ朝倉のシンボル「三連水車」

現在、国の史跡にも指定され、日本の音風景100選にも選ばれている朝倉のシンボル「三連水車(堀川用水)」。 その雄大な姿は、悠久の時を超えて今も農地を潤し続けていますが、その実現と維持の裏には、ある二つの家の血のにじむような連携があったことが伺えます。

  • 「水を確保し流す土木工事」を指揮した古賀家。

  • 「水を汲み上げる水車」を実用化した吉松家。

この巨大な水利事業は、一人の英雄によるものではなく、「命を削って水を引いた父の世代」と、「その水を生かす技術を生み出した子の世代」という、二世代にわたる執念のリレーによって成し遂げられたものなのです。

物語の鍵を握る三人の男たち

この歴史ドラマを理解するには、吉松家が「父と息子」の二代にわたって関わっていることを知る必要があります。

1. 総監督:古賀 百工(こが ひゃっこう)

  • 役割: 堀川掘削工事の総合責任者(古賀家)

  • 使命: 「水を引く」

  • 全計画の指揮官。81歳で亡くなるまで、生涯を治水に捧げた鉄人。

2. 重要プロジェクト人事担当:吉松 種重(よしまつ たねしげ)

  • 役割: 田中村の庄屋(リーダー)、堀川掘削工事の重要プロジェクト「井手所御仕調(いでしょおしらべ)」の人事担当

  • 運命: 「難工事に散る」

  • 百工の指揮下で最も重要かつ危険な工事の人事部門を担当し、37歳で死去。(当時、遺族は過労死と評価)

3. 技術開発者:吉松 種熙(よしまつ たねひろ)

  • 役割: エンジニア

  • 功績: 「水を汲む」

  • 父の死後に成長。父が命懸けで引いた水を生かすための自動回転水車(模型)を考案。

【時系列】父の死を越えて、水車が回るまで

古賀家と吉松家、そして父と子の運命は、筑後川の治水と共に交錯していきます。

第1章:苦闘と決断

  • 1718年(享保3年):古賀百工、誕生 後に朝倉の水を支配することになる男、古賀百工が生まれます。

  • 1750年代:水不足の深刻化 新田開発が進むにつれ、既存の堀川では水が足りなくなりました。30代〜40代となった働き盛りの百工は、筑後川からの取水口を拡張し、新しい川(新堀川)を作るという壮大な計画を立案します。

第2章:父の犠牲

  • 1759年(宝暦9年):吉松種熙、誕生 吉松家の次世代を担う種熙(後の水車考案者)が、種重の七男として産声を上げます。

  • 同年 1759年〜:死の難工事「井手所御仕調」 百工の元で、父・吉松種重(当時34歳・田中村庄屋)は、岩盤をくり抜く最も過酷な取水口拡張工事の重要任務、「井手所御仕調(いでしょおしらべ)」の人事・総務を任されました。 これは、工事に必要な労働力の手配と提供を行う人事責任者としての役割でした。 新堀川の開削は、町の未来の命運をかけた一大プロジェクトです。中でも「岩盤のくり抜き」は失敗が許されず、かつ命の危険を伴う最難関の工程でした。「死ぬかもしれない現場」へ村人を送り込まなければならない苦悩。「行きたくない」と怯える者の説得。極限状態でのモチベーション維持。そして怪我人や死者が出た際の遺族への補償対応……。 それら全てを一手に引き受ける責任者・種重の心労は、肉体的な疲労を遥かに超え、計り知れない重圧となっていたことは想像に難くありません。

  • 1760年(宝暦10年):井手所御仕調事業を完遂 種重は精神を削りながら責務を全うし、担当事業を完遂させました。しかし、代償はあまりに大きいものでした。

  • 1761年(宝暦11年):父・種重の過労死 種重は37歳という若さで急逝し、遺族はこの死を井手所御仕調事業の心労と激務が重なったことが要因と評価しました。この時、残された息子・種熙は、まだわずか2歳でした。父の顔も記憶にないまま、彼は「父が命を捧げた川」のそばで育つことになります。

  • 1764年(明和1年):「新堀川」完成 種重らの尊い犠牲の上に、5年の歳月をかけた新しい水路がついに完成しました。しかし、水を高い土地へ送る手段はまだありませんでした。

第3章:息子の発明と完成

  • 1789年(寛政1年):「三連水車」稼働 父の死から28年。成長し30歳となった息子・吉松種熙が、歴史の表舞台に現れます。彼は自ら考案した「水転車(水車)の模型」を役所に提出。その後、父が命懸けで確保した水路に、日本初とされる実働する自動回転式三連水車が完成しました。

  • 1790年(寛政2年):山田堰の完成(総仕上げ) 水車を安定して回すためには、さらに強力な水流が必要でした。73歳となった古賀百工は、老骨に鞭打ち、最後の大仕事として「山田堰(傾斜堰)」を完成させます。これにより、水車は永続的に回り続ける命を得ました。

  • 1798年(寛政10年):古賀百工、死去(81歳) 朝倉の農地487ヘクタールが潤うようになったことを見届け、百工はこの世を去りました。

  • 1832年(天保3年):吉松種熙、死去(73歳) 「水転車(水車)の模型」を役所に提出した種熙は死後、郡役所より「精思工巧(工夫と技術)」に対して金一封が贈られました。模型提出から始まった彼の功績が、公に認められた瞬間でした。

注釈:三連水車の設計者について 実は、朝倉の三連水車の設計に吉松種熙が直接貢献したという公的な記録は残されていません。 前述した「種熙による模型提出後に水車が稼働し、後にその技術(精思工巧)に対し役所から報奨金が贈られた」という史実は、あくまで『吉松家文書』に基づくものであり、一般的な朝倉の歴史において、三連水車の設計者は未だ「不明」とされています。 しかし、父・種重が庄屋を務めた田中村が新堀川の恩恵を最も受ける地であった事実や、種熙が生きた時代背景を鑑みれば、吉松家文書の記述は極めて信憑性が高いと言えます。それゆえ本稿では、種熙こそが三連水車の設計・実用化に多大な貢献を果たした人物であろうと推察し、その功績を評価しています。

まとめ:朝倉の奇跡を生んだ「役割分担」

この物語から見えてくるのは、「古賀家が水を運び、吉松家がその水を汲み上げた」という歴史です。

  • 古賀家(百工): 筑後川の水を確実に流し込むための「堰」と「水路」を作り、エネルギー源を確保した。

  • 吉松家(種熙): そのエネルギーを使って水を汲み上げる「水車」を発明し、システムを完成させた。

そしてその中心には、「父(種重)が命を縮めてまで難工事に取り組み、成長した息子(種熙)が作った水車が回る」という、涙なしには語れないドラマがあったのです。 現在、私たちが目にする三連水車が上げる水しぶきは、かつてこの地で命を燃やした男たちの「魂の連携」そのものなのかもしれません。


あとがき

朝倉の地にて、歴史や文化、宗教の調査・研究を続けております、坂田拓也と申します。

これまで続けてきた朝倉吉松家の調査の中で、私は吉松家と古賀家が極めて近しい間柄であったことを示す記録に出会いました。その事実に突き動かされるようにして、私はこの物語の執筆に筆を執りました。

吉松家は、朝倉において1400年もの歴史を持つ、おそらく地域最古の一族です。しかし、豊臣秀吉の九州平定に際して旧領主(秋月氏)側として敗れた影響もあり、その詳細な歴史を伝える資料の多くは散逸してしまいました。 ですが、奇跡的に残された数少ない吉松家の資料の中に、古賀家に関する記述が確かに刻まれていたのです。

吉松家文書の「信憑性」について ここで慎重にならなければならないのが、史料としての評価です。 ここで言う「吉松家文書」とは、吉松家の先人たちが語り継ぎ、後世に残した文書群の総称です。これらは同時代に書かれた一次史料というよりは、「家伝」としての性格を強く持っています。 通常、こうした家伝は信憑性に注意して扱う必要がありますが、当時の時代背景と比較・検証した結果、私はその内容が「概ね史実を反映している」と評価しています。

例えば、吉松種政が残した家系図一つをとっても、以下の点から高い信頼性がうかがえます。

  • 捏造の流行より遥かに古い 江戸時代後期(1800年頃)には家系図の偽造・粉飾が流行しましたが、この文書はそれより約140年も前(1668年)に書かれています。

  • 不都合な真実の記載 豊臣秀吉に領地を没収され、神職を追われたという、家にとって「没落の歴史」や「屈辱」とも言える事実を隠さず正直に記録しています。

  • 実在の裏付け 別資料(吉田縁起)にも神職として種政の名前が記されており、彼が架空の人物ではないことが第三者資料からも裏付けられています。

また、内容の妥当性についても同様です。 文書には、所領没収を機に、それまで「神職」と「行政」を兼任していた本家を分家させ、役割を分担した旨が記されています。現代の感覚では「なぜわざわざ家を分けるのか」と疑問に感じるかもしれません。 しかし、当時の時代背景——秀吉による太閤検地、刀狩り、そして身分統制令——を考慮すれば、生き残るためには「神職なのか、武士(在地領主)なのか、農民なのか」を明確に区分する必要に迫られていたことは明白であり、吉松家の分家対応は極めて合理的と言えます。

史料が語る「下剋上」か「盟約」か 吉松家の先人たちは、家の記録の中で、わざわざ古賀家に関することを何度も書き残しています。それはまるで、後世の我々に「吉松家と古賀家の絆」を伝えたがっているかのようです。 私は、現代に残されたこれらの文書と古賀家の公開情報を照らし合わせ、史実の隙間を埋めるようにして、両家の間にあったであろう「必然のドラマ」を再構成しました。

本物語の核となったのは、吉松家系図の「第32代 吉松種良」の項に記された、以下の一節です。

【史料:吉松家系図 第32代種良の項(抜粋・現代語訳)】

三十二嗣 民部 吉松種良 (第32代継承者、民部・吉松種良)

當天正之項而自御笠郡唐古賀邑興古賀新左衛門云者漂白之砌来干須川邑住◯頼寄テ民部種良也 (天正の頃、御笠郡唐古賀村より古賀新左衛門という者が、流浪の末に須川村へ住み着き、種良を頼って身を寄せた)

此故自種良使古賀新左衛門致朝倉郷触口 (こういうわけで、種良は古賀新左衛門を使って、朝倉郷の「触口(連絡役)」とした)

其後當天正十五丁亥年豊富朝臣平秀吉公筑紫進發之時被没収所領 (その後、天正15年、豊臣秀吉公の九州出兵の際、吉松家は所領を没収された)

其後所小早川高影公領當郡之時 為総大宮司郷長而已 (小早川隆景公の領地となった時、種良は総大宮司および郷長となるのみであった)

犹行送年月之處慶安四辛卯年依種良卒去為種仲早世 自何時触口之役者古賀氏勤大宫司者種栄勤也 (年月が過ぎ慶安4年に種良が没し、嫡子・種仲も早世したため、いつの頃よりか、触口の役目は古賀氏が勤め、大宮司は弟の種栄が勤めることとなった)

この記述だけを字面通りに読めば、「吉松家が流浪の民であった古賀家を助けたが、吉松家当主の早世などの不幸に乗じ、いつの間にか古賀家が朝倉での行政権(触口の役)を獲得していった」という、一種の「下剋上」のように読めるかもしれません。

しかし、歴史全体を俯瞰してみると、全く違う景色が見えてきます。 別項の調査で触れた通り、古賀家が朝倉に移住して以降、吉松家の女性の多くは古賀家の男性へ嫁ぎ、逆に古賀家の女性が吉松家へ嫁ぐなど、両家は幾重にもなる婚姻関係で結ばれています。 これは単なる主従やライバル関係ではなく、運命共同体としての「強い信頼関係」があったことの何よりの証左です。

この史実に基づき、私はこの物語を「権力の奪い合い」ではなく、乱世において互いの家を存続させるために手を組み、困った時に助け合う「両家の絆の物語」として描きました。

現代に続く「平松」の系譜 2025年となった現代も、この出来事の名残は確実に朝倉の地に息づいています。 今でも多くの古賀姓の方々が朝倉に住まい、企業経営や医療の現場など多方面で活躍されています。近代においては、かつての「平松」である比良松出身の古賀氏が朝倉町長を務められたことも、400年前から続く「実務と行政の才」の系譜を感じずにはいられません。

かつて、全てを失いかけた若き神職と、故郷を追われた誇り高き武士が交わした約束。 その「絆」が、形を変えながらも現代の朝倉の繁栄を支えていることに思いを馳せ、筆を置きたいと思います。

時を超えて受け継がれる先人たちの想いが、今を生きる皆様の心にも届くことを願って。

著:坂田 拓也

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