朝倉星野家物語
朝倉の地にて、歴史や文化、宗教の調査・研究を続けております、坂田拓也と申します。 吉松家の調査を進める中で、私は「朝倉・須川は13世紀から筑後星野家の領地であった」という興味深い伝承に出会いました。戦国末期、義を貫いて散った猛将の遺児が、苦難の末にたどり着いた約束の地。 本物語は、実在の史料と伝承を繋ぎ合わせ、初代・朝倉星野家当主となる星野胤吉の数奇な運命を描いたものです。
朝倉星野家の祖
我が名は、星野胤吉(ほしのたねよし)。 戦火に追われ、流浪の果てにこの須川へ辿り着き、上須川の山野を切り拓いた朝倉星野家の初代である。
父を失い、生まれ育った故郷を追われ、全てを奪われた私が、なぜこの地を選んだのか。 それは、武士としての剣を鍬に持ち替え、再びこの大地に根を張り、土と共に生きる道こそが、我に残された最後の戦いであったからだ。
前史:空白の支配と、二つの武士団の興り
物語を始める前に、時計の針を13世紀まで戻さねばならない。 平安時代末期、朝倉の地は平家方の有力者・大蔵氏(原田氏)が実質的な支配者として君臨していた。しかし、源平合戦(1185年)で平家が滅亡すると、大蔵氏は没落。朝倉の支配権には巨大な「空白」が生まれた。
鎌倉幕府はこの地の再編を急いだ。 1203年(建仁3年)、幕府の命により、原田種雄が「秋月庄」を賜り、この地の支配を始める。これが後の戦国大名・秋月氏の始まりとなる。彼らは朝倉の北側、険しい山々に囲まれた古処山を拠点とし、天然の要塞を築き上げていった。
時を同じくして、朝倉の南側、筑後川沿いの湿地帯「菅生(すがふ)」(現在の須川)にも、新たな支配者が現れた。それが、筑後の名門・星野氏である。 星野氏がこの地を領有した経緯は定かではないが、彼らは北の秋月氏と対立するのではなく、強固な同盟関係を結んでいる。
北の山岳地帯を固める秋月氏に対し、星野氏は南の湿地帯と筑後川の水運を抑える。 いわば、星野氏は朝倉防衛における「南の盾」であり、両者は外部の脅威に対抗する運命共同体として、この地の歴史の表舞台に立ったのである。
そして数百年の時が流れ、戦国の世。 その「南の盾」の記憶が、一人の若き武士の運命を大きく動かすことになる。
第1章:筑後星野家の崩壊と、若き後継者の決断
時は戦国末期の1586年(天正14年)。 九州の覇権を巡る争いは最終局面を迎えていた。圧倒的な兵力を誇る豊臣秀吉軍に対し、筑後国星野村を本拠とする星野家第18代当主・星野吉実(よしざね)は、同盟国である秋月氏・島津氏との「義」を貫く道を選んだ。
吉実は筑前国糟屋郡の「高鳥居城」へ入城し、鬼神の如き奮戦を見せた。しかし、多勢に無勢。吉実は壮絶な討ち死にを遂げた。 この瞬間、筑後における星野氏の武力勢力は潰えたのである。
しかし、星野家の血は絶えてはいなかった。 吉実の遺児、星野胤吉(ほしの たねよし)である。
父の訃報を受けた胤吉は、悲しみに暮れる暇もなく、残された一族とともに、母の実家である肥後(熊本)へと逃れ、父の死を弔った。
1587年(天正15年)、父の一周忌を終えた頃、潜伏先の肥後でも国人一揆が勃発したことで、秀吉の侵攻はここ肥前にも襲いかかり、肥前の情勢が極めて不安定となった。
「……もはや、ここに留まることはできぬ」 胤吉は一族の者を前に、静かだが力強い声で宣言した。 「これより我らは、祖先のゆかりある地、筑前朝倉の『菅生(須川)』を目指そう」
なぜ、朝倉の須川なのか。 それは、かつて一族が「南の盾」として守り抜いた誇りの地であり、先祖・星野胤実(たねざね)が創建したと伝わる「高木神社」が鎮座する場所だからだ。 「ご先祖様が守り続けたあの地へ帰ろう」 それは、生き残るための逃避行ではなく、失われた誇りを取り戻すための、決死の「帰還」であった。
第2章:決死の山越えと、山守りとの再会
一行は敵の目を欺くため、あえて険しい山道を選んだ。 かつての本拠地・星野村の大円寺で先祖の霊に別れを告げ、耳納連山の難所・牛啼き峠を越える。吉井の妙福寺で身を休め、闇夜に紛れて「恵蘇の渡し」から筑後川を渡った。
そして1587年12月、大晦日の夜。 極寒の風と雪が吹き荒れる中、胤吉たちはついに須川の妙見原へと辿り着いた。疲労と寒さで意識が遠のきそうになる中、胤吉の脳裏にある人物の顔が浮かんだ。
「甚助(じんすけ)……。あの男ならば、あるいは」
甚助は、高木神社の近くに住む山守り(やまもり)であった。かつて、星野家がこの地の山林を管理していた頃、胤吉の父・吉実が懇意にしていた男である。胤吉も幼い頃、父に連れられてこの地を訪れた際、甚助に山を案内してもらった記憶があった。
一行は最後の力を振り絞り、記憶を頼りに甚助の小屋を探し当てた。 扉を叩くと、中から警戒した様子の男が顔を出した。松明の明かりに照らされたその顔は、記憶の中の甚助よりもだいぶ老けていたが、その眼光は変わっていなかった。
「誰だ、こんな夜更けに」 「甚助、私だ。星野吉実が子、胤吉だ」 「……若様!? まさか、若様でございますか!」
甚助は驚き、すぐに胤吉の手を取って小屋の中へ招き入れた。 「生きておられたのですね……。高鳥居城のことは聞き及んでおりました。まさか、このような場所で再会できるとは」 甚助は涙を流し、胤吉たちに温かい粥と暖を提供した。
胤吉は、これまでの経緯と、この地で生きる決意を甚助に語った。 「我らは武士を捨て、この地で土と共に生きる覚悟だ。だが、よそ者の我らが勝手に住み着くわけにはいかぬ。この地を治める者に、許しを得ねばならん」
甚助は深く頷き、力強く答えた。 「承知いたしました。この地の祭祀と管理を一手に担う、吉松様というお方がおられます。明日、私が案内いたしましょう。吉松様ならば、きっと若様たちの力になってくださるはずです」
第3章:高木神社での邂逅と盟約
到着後はしばらく甚助の家で休ませもらい、長旅の疲れを癒やした。
年が明け数日が経った。甚助の案内で、胤吉は上須川にある高木神社の社殿を目指した。冷気を含んだ風が、火照った頬に心地よい。
「ここが、ご先祖様が建てた神社か……」 数百年もの間、この地を見守り続けてきた古社を前に、胤吉は自然と頭を垂れた。苔むした石段と静寂な佇まいが、悠久の時を語りかけてくるようだった。
社殿の前で待っていたのは、二人の神職であった。 朝倉地域の大宮司家である吉松家の当主・吉松種良(たねよし)と、その弟・種栄(たねしげ)である。彼らは甚助から話を聞き、朝早くから胤吉の到着を待っていたのだ。
実は、この吉松家もまた、深い悲しみの淵にあった。 彼らは、つい最近までこの地を支配した秋月家の親族であり、その厚い庇護を受けてきた社家である。しかし、天下を統一せんとする豊臣秀吉の九州征伐という巨大な濁流は、この山里をも飲み込んだ。頼みの綱であった秋月家は敗れ、遠く日向国(ひゅうがのくに)への移封を命じられたばかりだったのである。 後ろ盾を失い、祭祀を守るためにこの地に残ることを選んだ兄弟の胸中もまた、不安と無念で満たされていた。
胤吉はその場に平伏し、改めて自らの口で、素性と志を語った。 「我らは筑後星野吉実が子、胤吉と申します。父は義のために散りましたが、我らは生き恥を晒してでも家名を残したく、祖先ゆかりのこの地へ参りました。」
胤吉の声は震えていたが、そこには悲痛な決意が込められていた。 兄・吉松種良は、胤吉の目を真っ直ぐに見つめ、深く、静かに頷いた。彼には痛いほどに分かったのだ。目の前の若者が背負っている、「敗者」としての重荷と、それでも生きようとする強さが。
「星野殿。頭を上げられよ」 吉松種良の声は沈痛ながらも温かかった。 「貴殿の父君の武勇と義心は、遠くこの地にも届いております。高鳥居城での最期、実に見事であったと……。我ら吉松もまた、同じ痛みを抱えておるのです」
吉松種良は遠く南の空を見つめるような目をした。 「我らの本家であり、庇護者であった秋月家もまた、太閤秀吉の軍勢の前に屈し、この地を去りました。我らは守るべき神のために残りましたが、心には同じ風が吹いております。貴殿らがこの地に戻ったのは、いわば神の導き。いや、ともに秋月家のために戦い、傷ついた者同士を引き合わせた、先祖の配慮かもしれませぬ」
弟・吉松種栄もまた、胤吉のボロボロの衣服と、その奥にある決して折れない誇りを感じ取り、穏やかに微笑んだ。 「ご安心なされ。我ら吉松家が、貴殿らの定住を取り計らいましょう。この須川(菅生)の地は、開拓は困難かもしれぬが、世の喧騒から隠れ住むには良い場所だ。ここを星野一族の安住の地となされよ」
種良は雪の上に膝をつき、胤吉の手を両手で包み込んだ。その手は温かく、固い絆を約束していた。 「ようこそ、帰ってこられた。我らは共に、時代に翻弄された者たちだ。これからは共に手を携え、この朝倉の地を守っていこうぞ」
こうして、秋月家ゆかりの地元の実力者・吉松兄弟の尽力と、古くからの縁者である甚助の仲介により、星野一族は正式にこの地へ根を下ろすことになったのである。それは単なる定住の許可ではなく、失われた時を乗り越えようとする者同士の、静かなる盟約の結びであった。
終章:朝倉星野家の始まり
吉松家の助けを得て、胤吉たちは武士の刀を置き、農民として土に生きる道を選んだ。 彼らは甚助の手ほどきを受けながら、困難な湿地帯の開拓に取り組み、先祖代々の土地と山林を守り抜いた。これが、現在に続く「須川の星野家(本家)」である。
また、叔母(父の妹)である「三位の局」の子孫は、ここ須川の星野家を頼りに、隣接する大庭地区に居を構え、「大庭の星野家(分家)」として本家を支える存在となった。
1587年の大晦日から始まった、雪解けの朝の物語。 高木神社の境内で、吉松兄弟と星野胤吉が交わした固い握手と、それを温かく見守った山守り・甚助の笑顔。 それは、公式の歴史書には残らないが、朝倉の歴史の深層で確かに結ばれた「義と縁の絆」であった。
今も朝倉には、胤吉の血を引く多くの星野姓の方々が暮らしている。 そのルーツには、戦国の世を義のために戦い抜き、最後は自らが拓いた約束の地へ帰ってきた、誇り高き一族の物語が秘められているのである。
あとがき
最後までお読みいただきありがとうございました。
まず、調査の中で私が感じた一つの「歴史の不思議」について触れておきたいと思います。 実は、私が調査を進めている『吉松家文書』には、秋月氏の名前は何度も登場する反面、星野氏の名は一度も登場しないのです。
吉松家の拠点(宮野・恵蘇八幡宮)からの距離を考えれば、秋月よりも、須川の方が圧倒的に近いにも関わらず、吉松家の公式な歴史記録に星野氏の名が見当たらないことは、一見すると不可解にも感じられます。
しかし、文献にないからといって、彼らがいなかったわけではありません。 朝倉に残る伝承、星野村や筑後地域に残る星野家の痕跡、そして何より、いまも多くの「星野姓」の方々がこの朝倉に暮らしている事実。これらを考え合わせると、星野家は吉松家の文書には記されないものの、朝倉の歴史を支えた重要な存在であったと確信しています。
1185年、源平合戦。 当時の朝倉の支配者であった大蔵氏(原田氏)は平氏側について敗れ、没落しました。この時、朝倉という地域の支配権には巨大な「空白」が生まれたと考えられます。
その後、13世紀に入り、鎌倉幕府より許された秋月氏が「北の山地(秋月)」を賜ったのと同時期に、星野家はこの「南の湿地(須川)」に入り、実質的な支配と開拓を担ったのでしょう。
彼らは秋月氏と共に朝倉を守り、戦国末期に敗戦の憂き目に遭いながらも、最後は自らが拓いたこの地へ帰ってきました。 公式な歴史書には記されない、13世紀から続く開拓と防衛の記憶。 そして、1587年の大晦日に結実した執念の帰還。 須川という土地の歴史の深層には、文書よりも雄弁な、この星野家の誇り高き血脈が脈々と流れているのです。
(調査・文:坂田 拓也)
吉松家全史物語について
吉松家全史物語の注意事項
第一章:古代・創世記
神話と歴史の交差点
第二章:平安・鎌倉期
祈りと剣の契約
第三章:室町・戦国期
秋月家との血脈と繁栄
第四章:安土桃山期
吉松家最大の危機と決断
第五章:江戸期
現代へつなぐバトン
第六章:近現代
激動の近代と離散、そして再会
あとがき
未来へ続く「吉」を待つ心
【番外編】吉松家の調査を終えて
調査のきっかけなど
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